「新しい公共性」とアソシエーション

田畑 稔(大阪経済大学人間科学部教授)

以下は2003627日に立命館大学「公共研」研究会で「公共研」が出版した共著『新しい公共性―そのフロンティア』の合評会に招かれた際の報告であり、「公共研」編集の『公共研会報』第4(2003925日発行)に発表されたものである。

 今回は『新しい公共性』という立派な本を出版され、コメントをするようにというお話で、大変名誉なことですが、同時に大変「しんどい」ことを引き受けてしまったなと、多少後悔もしております。公平な書評子としてやるよりも、自分の問題意識を述べた方が発表としては面白いかなということで、タイトルも「新しい公共性とアソシエーション」とさせていただきました。アソシエーション論や「アソシエーション運動」というものと「新しい公共性」の問題意識がどう重なり合うか。どうずれるかというあたりに焦点をあてて、私なりに感想を述べさせていただきます。

 最初に書評子の立脚点を紹介する意味で、アソシエーション論への私の取り組みを簡単に紹介することからはじめさせていただきます。私のアソシエーション論への取り組みは、少しずつ進展しておりまして、現在は第4段階ぐらいのつもりでおります。

『マルクスとアソシエーション』(1994)

 第1段階は、いわゆる「ソビエト型社会主義体制」の混迷と崩壊を受けまして、マルクスをもう一度読み直す作業を80年代のはじめから進めまして、『マルクスとアソシエーション』という本を1994年に出しました。アソシエーションという概念を初期のマルクスから系統立てて追っ掛けたわけですが、マルクスのアソシエーション論は、一方で概念として事実上抹殺されていたこと(例えば大月全集版では20以上の訳語が当てられている)、他方でマルクスのアソシエーション論への言及があっても、フーリエ、サン=シモン主義、プルードン、オーエンなどとの比較論、影響論にとどまっていたように思います。それで、マルクス自身の理論の全体構成の中でアソシエーションのもつ核心的意味を探り直そうとさないといけないと考えたのです。今日の議論の文脈で、一つだけ紹介しておきましょう。これは『資本論』の第3部のための草稿にあるもので、後に公刊に際してエンゲルスが加筆し意味不明となった箇所ですが、こういう文章があります。

 「資本制的生産部門の内部では、均衡は不均衡から脱する過程としてしか自分を表さない。というのは、そこでは生産の連関は盲目的法則として生産当事者たちに作用し、彼ら[生産当事者たち]がアソシエートしたVerstand[哲学では悟性と訳されていますが、実際的理解力や判断力を指す]として、その連関を共同のコントロールのもとに服属させていないからである」。(MEGA2-U-4-U-331

『資本論』の草稿には、未来社会を特徴付けるものとして「アソシエートした(assoziiert)」という言葉がたくさん出てきます。ここで出てくる「アソシエートしたVerstand」もその一つで、マルクスには労働論があっても相互行為論は欠けているとよく言われますが、この「アソシエートしたVerstand」はハーバーマスの「コミュニケーション的理性」ときわめて似通っており、「公共性」との絡みでも注目されるものです。これに注目しつつ、マルクスの解放論をごくごく図式化すると、次のような整理ができるでしょう。

@権力、疎外、外化、物象化(物件化)、物化の論理

 相互孤立的に振る舞う個人には、彼ら自身の連関や結合力が、外部の権力、権力者の力、物件の神秘の力、貨幣や資本の力、自然法則や運命として、外化形態をとって立ち現れてくる。当事者たちが相互孤立的なあり方をしつつ、社会的に連関し、社会諸力を展開する限りにおいて、彼ら自身の社会的連関、社会的諸力は、コントロール不能の強制力として彼らに向かって立ち現れる。

A暴力的形態での均衡回復

不均等や外化がある限度を越えると、均衡や統一は諸個人を転倒させ、圧倒する威力という暴力的形態で発現する。これは危機や破局の論理で、いわゆる「否定的弁証法」です。問題はこれでマルクスの論理が終わっているという了解です。「かならず破局がやってくる」と断言して終わりというのは、しばしば見られた悪弊なのですが、実践的にはきわめて受動的態度に終始することになるでしょう。

B権力過程や物象化過程への対抗過程としてのアソシエーション過程

 マルクスではポジティヴな否定が目指されていたのであって、それがアソシエーション論に他なりません。つまり当事者たちが相互孤立的なあり方を脱し、「アソシエートしたVerstand」(哲学的理性ではなく、実際的な理解力、判断力という能力を指す)として相互行為的に振舞うならば、社会的連関、社会的諸力は、彼ら自身の連関、諸力として共同のコントロールのもとに服属させることが可能である。

 こういうふうに図式化することが可能ではないか。このようにアソシエーション論はマルクスの理論の全体構成の中で核心的な位置を占めているのです。

では、「アソシエートしたVerstand」とは、どういうコミュニケーション的、認知的、価値判定的、意思的な働きを指すのか。また相互孤立的なVerstandは、どのような条件下で、どのような中間諸形態を経て「アソシエートしたVerstand」に転化するのか。当事者たちのVerstandが「アソシエートしたVerstand」に移行するのは、どういう人格史的、歴史的、制度的諸条件を前提にして可能となるか。また逆にどういう人格史的、歴史的、制度的諸条件下で「アソシエートしたVerstand」は「脱アソシエーション化」するのか、マルクスにより十全には答えられなかったこのような一連の問題が派生してくるでしょう。ハーバマスの「理想的発話情況」を語るだけではダメで、中間諸形態を具体的に、実践的に媒介させないといけない。

 『マルクスとアソシエーション』ではいろんな議論を行っておりますが、論理的、抽象的なレベルで申しますと、上のような図式になります。当時の状況的実践から切り離して、このように普遍的原理論的文脈に置き換えてみると、我々の時代の課題との連続面もよく見えるのではないでしょうか。マルクス解釈としては、イデオロギー論、権力論、搾取論、恐慌論、すべてクリティシズムです。しかし「鉄の必然でもって崩壊するのだ」と言うだけでは、クリティシズムといっても、受動的態度で終わる。私なども含めて、左翼の政治文化の悪弊につながってしまうのではないか。マルクスの中でポジティブなものを、もう一度見直さなければならないということで、アソシエーションがクローズアップされてくるわけです。

グラムシとアソシエーション

 その次に私が取り組んだ作業は、グラムシの「市民社会論」「ヘゲモニー論」「知的モラル的改革論」「陣地戦論」とマルクスの「アソシエーション論」を結び付ける作業です。この作業は松田博さんという、現在、日本のグラムシ研究の中心人物ですが、彼に色々学びながら進めております。 幸いにドイツ語版の『獄中ノート』が完結いたしまして、文献的にもグラムシが読めるようになりました。マルクス・アソシエーション論をグラムシの「陣地戦論」と絡ませることを通して、現代の地平で「アソシエーション革命」を論じる地平がすこしずつ見えてきた思いです。

グラムシの『獄中ノート』は、ソビエト型革命のヨーロッパへの波及としての「ヨーロッパ革命」の敗北という現実の上に立って、社会変革のあり方、マルクス主義のあり方を根本から考え直そうという、獄中での自己批判的作業なんです。ところで、今までのグラムシ研究では『獄中ノート』におけるアソシエーション概念には、ほとんど光が当たっていませんでした。私はF・ハウクというドイツの代表的なマルクス研究者が自ら編集している『歴史的‐批判的マルクス主義事典』に執筆した「アソシエーション」項目を翻訳紹介しましたが、ここでは不十分ながら、グラムシ・アソシエーション論への注目が見られます。これを一つの契機として、グラムシ・アソシエーション論研究が進み、『獄中ノート』におけるアソシエーション概念が、松田博さんらにより、ザッハリッヒに解明されつつあります。「アソシエーション」は、従来の「市民社会論」「ヘゲモニー論」「知的モラル的改革論」「陣地戦論」など、グラムシの一連の鍵概念に匹敵するような重要な意味を持っているのではないかということが、徐々にわかってきました。

 今日の議論を一歩進めるために申し上げておきたいのは、トクヴィルの「中間集団論」とグラムシのアソシエーション論の対比です。トクビル『アメリカの民主政治』はアソシエーション論の古典的著作です。近代になると諸個人は自由な存在として現れるが、職人組合や都市や共同体といった伝統的な中間集団を失い言わば裸で現れる。しかも分業を発達させて、社会的な関係性を強化するわけですから、国家を肥大させる条件をつくりあげるわけです。

「人々が文明人にとどまり、また文明人となるためには、人々の間で諸条件の平等が増大するに正比例して、相互にアソシエートする術(the art of associating together)が成長し向上しなければならない。これは人間社会を支配する法則の一つである。」

トクヴィルの警告としては、近代人は「アソシエーションのアート(「技」「術」)」や「アソシエーションの学(science of association)」というものを身につけないと、国家の奴隷になってしまう、ということです。この正しさは「ソ連型社会主義」で改めて確証されました。しかしグラムシのアソシエーション論は、「国家」対「個人」という縦軸だけでなく、アソシエーション対アソシエーションという横軸にも着目する。指導集団や支配諸勢力は、政治機構や法体系のみで支配しているのでない。西川長夫さんが第3章で触れておられるように、市民社会の中で、学校や教会や職業団体といった民間のアソシエーションを通して、教育し、同意をとりつけ、ヘゲモニーを維持していく。だから逆に、「サバルタン(従属集団)」も新しい価値、モラル、生活様式を掲げて「対抗的アソシエーション」をつくり、「対抗的ヘゲモニー」を構築していかねばなりません。そこに「知的モラル的な改革運動」や「陣地戦」というイメージが重なりあって、グラムシの新しい変革像が描かれるのです。この市民社会の領域を視野に入れていなかったおかげで、ヨーロッパ革命が失敗したのだということなんですね。

共同研究『アソシエーション革命へ』(2003年3月)

 第3のステップが、3年がかりの共同研究で、やっとこの3月に出ました『アソシエーション革命へ』(社会評論社)です。これはアソシエーション論を思想史的な文脈においてでなく、あくまで基礎研究ですが、現代の社会変革論としてとらえようとするものです。

 レスター・サラモンは、NPOの国際調査を5年に一度やっている合衆国の政治学者ですが、20世紀末に世界的にNPOの急成長が見られたことを根拠に、「ひとつのグローバルなアソシエーション革命」が進行中であると見ております。その言葉を我々も採用したのですが、いくつかの批判的留保をしております。

一つは、彼の国際調査では協同組合の諸形態は除外されております。これはヨーロッパの「社会的経済」系の学者との大きな違いです。NPOは公共機能を民間団体が担う、利他的な性格をもつ組織であるのに対して、協同組合はセルフヘルプ、つまり自助、共助の連帯組織です。「アソシエーション革命」は両者が車の両輪のようになって進行中であると見るべきではないでしょうか。ちなみにヨーロッパ11カ国を調査したドゥフルニは、両者の中間的な性格を持った「社会的企業」が現在急成長していると見ております。

また「革命」の内実の問題です。サラモンの場合には、NPセクターが20世紀の終わりに「急成長した」という意味でアソシエーション革命を語っている。私自身は「アソシエーション的な諸関係、諸部門、諸力が、したがってまた我々のアソシエーティブな生き方が、国家や市場や私的経営組織に対してドミナントであるような社会のあり方への社会の変革」という意味で使っております。つまり、国家や市場や私的経営組織というものを全否定し、その上でアソシエーションを一元的な社会システムとしてつくりあげるという意味ではなく、社会のドミナントなあり方の変更として「アソシエーション革命」を位置づけたいと思っております。

 これには従来の変革論に対する自己批判も含まれております。フランス革命やロシア革命の場合もそうだったわけですが、まずは国家権力を握って、上から社会改造を強行するという伝統的革命論は今日的に有効でない。少なくとも現在の日本では、そういう展望は立たないというだけでなく、こういう変革コースは革命後、国家集権システムを結果したという失敗から学ぶ必要があります。「アソシエーション革命」は、生活世界の危機をベースにして、新しい価値、新しいモラル、新しい生活様式、新しいガバナンスを目指す、さまざまな対抗的なアソシエーションの生成と提携の延長線上に課題として提出されてくる社会変革であり、また直進的でなく、脱アソシエーション化の諸力と再アソシエーション化の諸力が同時に働く中で、社会の「ドミナントなあり方」を変えていくプロセスとして考えられるべきだと思います。

 政治的国家的手段との関係で言えば、ある種のアナーキズムのように、政治的国家的手段を全く認めないという立場はとらない。ホール・ハーストというイギリスの政治学者が『アソシエーティブ・デモクラシー』(1994、polity press)で指摘しているわけですが、やはり政治的、国家的な手段について、もう少し内在的なアプローチをしないと、ある種、国家主義の裏返しのような姿で止まってしまうのではないか。もちろん既存の国家に雪崩れ込めばよいというのは幻想で、新しい社会運動が、一方で「アソシエーティブ・デモクラシー」に向かって国家を本格的に再編するという課題を提起しつつ、同時に自らを政治的な力として表現していく必要があります。

  「そんな偉そうなことを言って、日本では何もできてないじゃないか」と言われそうです。そういう言い方は半分は当たっていますが、半分間違っているというのが私の考えです。ヨーロッパやアメリカではできても、市民が受動的な日本ではだめだとよく聞きます。それは無知や誤解に基づいている面もあるのではないか。日本の市民の政治的受動性を、何もやらない自分を正当化する口実に使うようなことにならないように気をつけねばなりません。

たとえば関東では生活クラブネットワークがあります。私が調べた限りにおいては、アソシエーション運動の「立体化」を通して「地域化」していくプロセスがかなり進んでいる。社会運動のネットワークがあり、消費者協同組合やワーカーズコレクティブ(労働者協同組合)などの協同組合ネットワーク、それからローカルパーティをつくって地方自治体に進出しています。新しい企業も起こさないといけませんから、市民銀行。企業を起こすためのノウハウを身につけないといけませんから、市民大学。生活クラブは、去年から新しい方針を採択して、従来のネットワークをもとにして、地域にさまざまな文化的生活的アソシエーションをつくりはじめております。もちろん運動が進むと新しい問題も抱えるわけです。

もちろんこれは先進例のケースであって、どこでもということではありません。また、それぞれの運動を見ますと、政治的な背景や生成の経緯は全く違っております。にもかかわらず、運動の「立体化」を通して「地域化」が進んでいる。こういう、ある種の論理が共通に働いているのではないか。そのあたりが今日的な達成の地平ではないかというのが、暫定的な私の基本認識です。ここから果たして社会変革にどこまで結びつくのか。これらが社会変革の陣地になれるのか。こういった問題が次に提出されてくるのではないでしょうか。

「日常生活世界の哲学」

第4のステップは「日常生活世界の哲学」の展開です。これは生活者視点に立ってアソシエーション革命の内在的な可能性や必要性を論じようとするもので、ここでは紹介できませんが、来年中には一冊にまとめたいと思っております。

長々と自己紹介に費やしてしまいましたが、以下、アソシエーション論と公共性論がどう結びつき、どうずれるのかに焦点をあてて、本書に対する私なりのコメントを行っていきたいと思います。

山口定「序章 新しい公共性を求めて」

 山口さんが、最初に紹介されている丸山真男の言葉ですが、「戦後において滅私奉公の神話が崩れ、エゴ、つまり私的利害が日陰者の地位を脱しながら自発的結社の発生はまだ定着しないために、そこから公共性への自主的通路は生まれない。だから依然として官憲国家が公共性を代表し」(7頁)、云々という議論ですね。私的な圏域から公共圏へと日常生活者の意識が移行する上で「自発的結社」、つまりアソシエーションの意味はきわめて大きい。裸で言論空間に参加するのでなく、アソシエーションをつくり、自分の危機の体験を、より普遍的な言葉に置き換え、他者に対するメッセージに練り上げるというプロセスを経て、公共圏へと参入するわけです。そういう点で言うと、アソシエーションは確かに通路になるだろう。だから「私」を「公共性」へと媒介する「アソシエーション」という位置づけが出てくる。

ただ私の認識では、この媒介はもうちょっと複雑な構成をとっているのではないかなと思います。現存システムを国家、経済(市場と私的経営体)、そして親密圏(家族)に大別すると、アソシエーションは公共性と国家、公共性と経済、公共性と親密圏という3つの媒介機能を果たしている。協同組合や消費者団体や労働組合は経済システムとの中間で、政党やNPOなどは国家との中間で、生活的アソシエーション(子育てネットやセルフ・ヘルプ・グループなど)は親密圏との中間で組織され、そこに言論空間を持ち込み、対抗的価値を持ち込む。逆に官僚制の論理、市場の論理、経営権力の論理、さらには親密圏の論理に包み込まれて、脱アソシエーション化も進む。そういう二つのダイナミズムが同時に働いているわけです。

親密圏は基本的には愛情とか慣習によって調整されるわけですが、第2章で佐藤和夫さんがハンナ・アーレントに即して紹介されていますように、親密圏の問題を公共圏とどう結び付けるかは、必ずしもハーバマスにおいても成功していないように思われます。悪く言えば、生活世界はベタ一面という印象も与えます。しかし、ここでも「中間通路」としてのアソシエーションが極めて重要な意味を持っておりまして、逆に親密圏の中に公共性を持ち込む、親密圏を公共性に結び付けるという媒介をしているのです。

政治的アソシエーションの伝統的な形が政党であり、いわゆる「第一次結社革命」の成果だったのですが、現代では脱アソシエーション化を深化させ、ほとんど政府機能に合体してしまっている政党が多くなっている。この領域で生きた媒介機能を果たしているのは、NPO、NGO、それらをベースにした緑の党やローカル・パーティーなどでしょう。こういう新しい型のアソシエーションも、ロビー活動をしないといけないし、レスター・サラモンが強調していますように「適度に官僚制的実務体制も構築しないと役に立たない」。これは「経済的アソシエーション」についても言えるわけです。ですから「公共性」と「私的圏域」の真ん中にアソシエーションを置くというだけでは、共和制の理念としてはそうでしょうが、現実の社会システムの中で働くアソシエーションの機能としては、少し単純にすぎるのではないかという気がいたします。これは公共性論とアソシエーション論がズレるところかもしれません。

 山口さんの提言は「私は「一般性」「(建前としての)公平性」+「権力性」を「公」とし、ここから「権力性」を除き、「市民性」「公開性」「共同性」「多様性」と「討議」(手続き的公共性の中核)を加えて成立し、「私」と「公」の媒介を機能的特性とする重層的空間を「公共空間」もしくは「公共性」の空間とする」(10頁)という箇所に集約されます。ここでは「公」(「一般性」「(建前としての)公平性」「権力性」)に対置される「公共性の空間」は、「一般性」「公平性」「市民性」「公開性」「共同性」「多様性」、「討議」(手続き)、「「私」と「公」の媒介」(機能)、「重層的空間」によって意味限定されます。問題は、この「重層的空間」に、中富さんの言う「対抗的公共圏」「戦いの場としての公共圏」(259265頁)や、フレーザーのハーバーマス批判にある「多元的に競争し合う公共性を調整する編成」とか「下位の対抗的な公共性」が「支配的な公共性と競合」する事態(354頁)をどう組み込むのか。西川さんの「公共性という用語のもつ抑圧と開放の両義性」(82)という批判的留保もあります。「重層性」だけでは弱いのではないでしょうか。対抗性・敵対性を明示的にだすべきではないでしょうか。支配的公共性が成立しているというのは、そういう敵対的な対抗的公共圏を抱え込むからヘゲモニーになる。それを排除したら民主主義にも、公共性にもならない。支配的公共性自身が闘いを組み込むことによって成立するわけですね。なかなか難しい問題ですが、この本の中で何人かが提起しておられる問題で、そういうことが触れられるべきではないかという印象を受けました。

 山口さんは、日本語の「公共性」概念は「公」と「共」の双方を含む点で名訳とし、「公」が「共」を圧倒し、吸収しかねない「公>共性」と、「公」が良くも悪くも確固たる「共」の上に構築される「公<共性」を区別する。先に見たとおり我々は「アソシエーション革命」をドミナンスの移行と見ておりますので、この発想は大変参考になりました。ただ、この「共」の中身ですが、個人が負えないリスクをシェアすることによって自己決定権を高める金子勝の「自己選択と社会的共同性の相補関係」(16頁)と「生活の場において、市民としての自主性と責任を自覚した個人および家庭を構成主体として、地域性と各種の共通目標を持った開放的でしかも構成員相互に信頼感のある集団」であるコミュニティー(17頁)の二つをあげているだけで、肝心のアソシエーションはあがっていない。コミュニティーは居住空間の共有をベースにした「共」ですが、アソシエーションは立体化することを通して地域化するものの、それ自身は世界市民的な広がりを持ったNGOのような事例からも了解されるように、目的の共有をベースにしてつくられた組織ですから、さまざまな縦横無尽の結びつきを持ちうるわけです。コミュニティを別途取り上げるのは私も賛成ですが、二つ並べるべきではないかという印象を受けました。

  「公共空間public sphare」と「公共性publicness」=「争われる内容の正当性判断基準」=「公共善(public good)に関する人々の合意を可能にする手がかり」の区別(18頁)については、明快であり、大変勉強させていただきました。

「正当性の判断基準」「公共材に関する人々の同意」を可能にする手掛かりとして8つの基準を出しておられます。社会的必要性(公共事業)、社会的共同性(安全保障、社会保障、まちづくりなど、最低限度の共同の絆)、公開性(手続き的公共性)、普遍的人権(公共性の実体的価値的側面)、文化横断的諸価値(自由、人権、民主主義、寛容、持続可能性など)、集合的アイデンティティーの諸レベル(重層的アイデンティティーのそれぞれに固有の公共性と公共空間)、手続きにおける民主主義です。ここでお聞きしたいのですが、これらが正しい基準だと主張する場合には、正しさの根拠の提示が求められます。アプリオリな、規範的諸条件を反省自覚化したものであるのか。政治的な普遍性はヘゲモニーという形をとり、歴史的な普遍妥当性であって、「こういう基準が正当性判断基準として選ばれるべきだ」という主張は単なる「合意提案」であると見るのか。つまり判断基準として「こういうものを認めようじゃないか」という提案であるのか。「支配的なある種の公共性」に対する「反対提案」「修正提案」という性格を持つのか。公共空間が重層的な構成をとるとすれば、当然、公共空間の重層性に応じて判断基準と言われる公共性もまた重層性を持たざるをえない。「集合的アイデンティティの諸原理」というところで、山口さん自身、指摘されているわけですが、そういうものとの絡みで、一体、この正当性判断基準というものの妥当性の根拠をどう見ておられるのか。展開いただきたいと思います。

佐藤春吉「第1章 H・アーレントと公共空間の思想」

 佐藤さんはH・アーレントについて次のように紹介しておられます。「彼女の政治的秩序概念は、小規模なアソシエーションを単位とする評議会の連合による「評議会国家」にもとづく連邦制としてイメージされている」と(54頁)。それに対して佐藤さんは、「今日における批判的ポテンシャルとアクチュアリティ」は評価できるけれども、「ハーバーマス的な市民社会評価と近代の市民的公共圏の歴史的意義」を無視する点で同意できないとし、「今日ラディカル民主主義を活気づけているアソシエーション的な諸活動も、自由な公開的批判的言論と政治的諸活動の活性化によるこの空間の拡充と実質化、一層の民主化の中に位置づけることが現実的だ」と指摘されております。アソシエーション運動が「新しい公共性」に内在的にアプローチすべきだという点で、私も同意します。ただ果たして、そういう媒介が、ハーバマスでできているかどうか、もうちょっと考えないといけないのではないかと感じます。ハーバマスは、中富さんが紹介されているように(354頁)、「単一公共圏」のイメージが強い。公共圏の問題を「対抗的アソシエーション」「対抗的ヘゲモニー」「陣地戦」に結び付けていこうとしたグラムシと比べ、ハーバマスの場合は、古典的な共和制のイメージが強いような印象を受けます。ですから、アソシエーション革命と公共性との媒介は、単なるハーバーマスの参照という問題を超えて本格的に立てられるべき問題ではないでしょうか。

佐藤和夫「第2章 家族・親密圏・公共性」

 佐藤さんは「親密圏からの公共性概念の再編成」という重要なテーマを出されています。私もこのテーマには関心があります。危機や出会いや闘いを通して、日常生活世界の中から、アソシエーションの論理(マルクスの言葉で言えば「アソシエートしたフェアシュタント」)がどう生成するのか、追跡したいからです。しかし、もし親密圏から公共性概念を再編成していくというのであれば、やはり「セルフヘルプ・グループ」など生活的アソシエーションの諸形態を正面に据えて議論すべきではないでしょうか。親密圏からアソシエーションを通して公共性の世界へと展開していくプロセスを追うという意味で。もちろん、アーレントの親密圏批判の中には、ハーバマスのウィークポイントに的中するものがありまして、その部分は共有したいとは思っていますが。

西川長夫「第3章 多文化主義から見た公共性問題」

  西川さんの議論については、2か所に限ってコメントをさせていただきます。一つは西川さんが「公共性という用語の持つ抑圧と開放の両義性」を指摘するために、アルチュセールの「国家のイデオロギー装置」の議論を紹介しておられる点です(82頁)。私も、ある留保の上で、アルチュセールを評価をしたい立場ですので、西川さんと論争するつもりはありませんが、公共性への消極的アプローチとの絡みで言うと、アルチュセールは批判理論で終わったのではないか。彼は、私的圏域を組み込んだグラムシの国家論を援用して、「国家のイデオロギー装置」論を展開したのですが、同時にグラムシのポジティブな主張の面に対しては、おそらく同意を拒んでおります。私的であるか公的であるかということはどうでもよくて、国家のイデオロギー装置として完全に機能していることこそが肝要なことだという場合、グラムシでは「知的モラル的改革」という対抗ヘゲモニーの運動に連続していくのですが、このポジティブな部分に対しては、アルチュセールはグラムシの中に人間主義や歴史主義の「臭み」を感じて拒絶してしまったのではないでしょうか。市民社会の中で民間の諸団体が市民を教育し、同意を調達することを通して支配を再生産している。国家のイデオロギー装置として機能している。だから公的であるか私的であるかの法的区別は仮象でしかない。それはその通りなんですけれど、逆に対抗的アソシエーションもまた、モラルヘゲモニーを争わないといけない。それは究極すれば「普遍妥当性の争い」になるわけです。新しい価値とか、新しい生活様式を支配的なものに対抗させて、支持を獲得する、そういうことがないと社会変革にならないわけですから。単なる構造論や批判理論としてではなく、ポジティブに近代市民社会、近代市民国家をどう超えるかという問題について、アルチュセールはきわめて消極姿勢です。階級闘争を強調するものの、その中身は理論的批判という闘争、理論の闘争、批判的哲学者の闘争という形に収斂したのではないでしょうか。私自身も、「公共性」における「抑圧と解放」の両義性という指摘については西川さんに共鳴するわけですが、しかし同時に、ポジティブなものを潔癖に忌避し、結果としてグラムシの言う受動的態度に陥ってしまったという、逆のベクトルからも我々は自己吟味する必要があるのではないでしょうか。

もう一点ですが、西川さんは「公共性論の根本的な弱点は、…統治者側の観点を自らの内に持ち込んでしまっていることであろう」(104頁)と、指摘をしておられます。現に、公共性論はフェミニズムやアイデンティティー論の先端的部分を取り込むこともできていないではないか、と。そういう「周縁部」や「外部」の問題は果たして公共性論はクリアできているのか。こう現実を突きつけ、理念主義に走ることをに警告を発しておられます。折衷でなく、まったく賛成する立場で言いたいわけですが、私のアソシエーション論は「過程論的なアソシエーション論」でないといけないと考えているわけです。アソシエーション過程が進むと同じように、脱アソシエーションの力も働き、外部も不断に再生産される。同じように「新しい公共性」も、外部問題や脱公共性などを必然的に抱え込んでいる。やはり過程論的に考えることによって、理念主義にブレーキをかけるべきではないでしょうか。

ところで、周縁や外部のさまざまな対抗的な運動も、残念なことに脱アソシエーション化を深化させてセクトになる。カルトになる。疑似家族的な形をとったりする。こういう苦い経験も我々は同時に持っているわけです。本来はオープンなアソシエーション自身が、脱アソシエーション化して密室化し、言論封殺を行ったり、互いに殺し合いまでやった。そういう歴史的な地平からもう一度公共性の問題を考える時、公共空間で妥当性をめぐるオープンな闘いを堂々とやっていくという問題については、捨てきれない重要な意味を持つのではないかと思うわけです。西川さんがあえて「逆のベクトルから批判的に考えろ」という指摘は実に有効だと思いますが、あえて言えば「逆ベクトルのさらに逆ベクトル」も考えておかないといけないのではないか、という感想を持ちました。

後藤玲子「第4章 多元的民主主義と公共性」

 後藤さんの紹介されたアマルティア・センの「交渉集団、非影響者集団、評価集団」(118頁)については、たいへん示唆されました。アソシエーティブ・デモクラシーに向けた前進は、単に単位アソシエーション間のモナド的調和を確信するだけではだめです。とりわけ「直接的な交渉を行う当事者ではないものの、意思決定の際に参照される公正かつ不偏的な評価を形成する」「評価集団」を、どう歴史的に作り上げていくのか。アソシエーショナルな関係がドミナントになるためには、こういう問題もクリアーしないといけないんだな、と感じました。

立岩真也「第5章 分配的正義論」

 立岩さんはワークシェアリングを積極的に意味づける視点から、富の分配・再分配だけでなく、「労働の分配」に着目し、そこにおける「分配的正義」の問題を提出しておられる。この議論は人類史的射程を持った議論で、我々は新しい時代に突入しつつあるのだなと実感させられました。労働者協同組合などは「労働の分配」視点とどうクロスするのか、考えさせられました。

小関素明「第6章 歴史学と公共性論」

 小関さん。面白かったんですが、今日、来ておられるので一言、私の感想を言わせていただきますと、近代国家の形成過程までについて、生成の論理として矛盾を抱えながら一つの大衆原理をベースにして、欲望の存在と日本の近代史に則して生成の論理を構築することが、くしくも通俗道徳の発掘を通して、安丸氏を中心に述べ、その結果として近代国家は双方向性を持たざるをえなくなったという、日本における近代国家の生成、エートスを支えるという問題を出されたわけですが、今は日本の近代国家が解体、再編過程に入っているわけですね。ポスト近代国家の問題として、しかも我々日常生活世界から新しい未来社会の展望を語らないといけないとすれば、そこに国家の再編過程にかかわるようなものを0から得てくるわけにいきませんし、「日本は、そういうものではなかった」と言っても仕方がないことですから「近代国家の生成の論理としてより、従来の日本の国家の再編成の論理、それは解体になるのか、新しい公共的な関係を再構築できるのかを含めて、そこが今、新しい公共性の問題として問われている」。そういうふうに課題を立てた時、どういう回答が出てくるか、教えていただきたいと思います。

宮本憲一「第7章 公共事業の公共性」

篠田武司「第8章 ガバナンスと「市民社会の公共化」」

富野き一郎「第11章 自治体における公共空間」

 すでに時間がオーバーしておりますのでいちいちの紹介はできませんが、宮本さんの「分権的協同福祉社会」、篠田さんの紹介されたハーストの「アソシエーティブ・デモクラシー」、富野さんの「公・共・私」の区分の中には、「アソシエーション革命」の内実にかかわる指摘が多く見られます。とくに篠田さんが紹介されているハーストの『アソシエーティブ・デモクラシー』は1944年にでた本ですが、アソシエーション視点からの政治改革、経済改革、福祉改革を含むきわめて包括的なアソシエーション型社会改造案です。もちろん実践的な構想というレベルではないにせよ、おそらく現在のもっともまとまったアソシエーション構想であると思われます。

津田正夫「第14章 放送メディアの公共性と市民アクセス」

 津田さんによれば、欧米では80年代以降、放送メディアの公共性問題が、従来のように、単に報道内容の客観性や公平性や多様性の問題に限定されなくなり、放送内容や放送事業への市民・住民・NPOのアクセス権や参加を保障する問題をも含みはじめた。それが新たな市民放送の創出に繋がっているわけです。「教訓的なことは、いずれも国家と個人の間にコミュニティーや非営利活動団体(NPOやアソシエーション)を位置づけ、その合意形成の場として市民放送によるパブリックフォーラムを配置しているということだ」(350頁)と指摘しておられる。勉強させていただきましたのは、「公共の場」「公共の空間」というものも、自分たちでアソシエーションをつくって実現していくべきだというこの視点です。放送局は支配的アソシエーションとでも言いましょうか、ヘゲモニー機構として組織されている。しかし対抗する側もメディア・アソシエーションをどんどんつくっていく。日本についても徐々にそういう動きが出てきているように思います。「マスメディアはけしからん」というレベルで、人のせいにして済ますのは半分正しいが、半分間違っているということが、公共圏についても言われるべきだと。そういうメッセージではないかと思います。

「新しい公共性」とアソシエーション

 以上、断片的ですが、若干のコメントをさせていただきました。新しい公共性の展開にアソシエーション視点はどう関係するのでしょうか。

まずは、公共圏におけるヘゲモニーと対抗ヘゲモニーのアクターとしてのアソシエーションという問題があります。篠田さんもP・ハーストの議論を紹介しながら「公共性を担うアクターとしてのアソシエーション」に言及しておられる(217頁)

第2に、アソシエーションは公共性の中に対抗関係を持ち込むということです。「支配的公共性」「対抗的公共性」の両方についてアクターとして現れてきますから、公共性論を展開される方々にとってもアソシエーションという視点を組み込むことにより、対抗関係がリアルに描けるのではないか。

第3に、公共空間を通じてアソシエーションは妥当性を競うわけです。そういう競合を通してセクト化やカルト化、官僚化に対する抑止力も働く。モラル・ヘゲモニーとしての妥当性を強めるという点でも、対抗的アソシエーションは公共性の問題に対してある内在をしないといけないのではないかと考えます。

 第4に、アソシエーションは放送メディアを含め公共空間そのものを自分でつくりつつあるということです。

第5に、「公共業務」もアソシエーションによって遂行されるということです。公共性というのを公共業務という部分で見ても、国家をリストラして市場に丸投げするのでなく、NPOなど市民の非営利組織が担って行く。新自由主義的国家リストラ路線に対するオルタナティブにもなるわけです。

 最後に、アソシエーションは公共性の空間を生活世界全体に拡大する。経済民主主義や生活民主主義の方向で、自由民主主義の限界を超えていく。こういう面もありましょう。

こういういくつかの点から見て「新しい公共性」を構想する場合に、アソシエーションの視点を組み込むべきではないかというのが私の本書に対する基本的コメントでございます。

 これで終わります。