田尻年宏
近年になって急速に加速しているインターネットの普及。パソコンの専門的な知識がなくとも、最低限必要なスキルさえあれば誰もが簡単にネットサーフィンできる時代になった。情報を手に入れるのが容易になったのは確実だが、未だインターネットの拡大加速に社会がついていけずにいる感があり、出来事・事件がメディアに取り上げられることも多い。一体インターネットの世界でなにが起こっているのか、そしてどのようにそこで生きていくべきか検証しようと思う。
インターネットでのコミュニケーションの方法として有名なものに、「掲示板」と「チャット」がある。掲示板というものは実際世界での掲示板のようなものを、インターネット上で再現したようなものである。名前とコメントを投稿すればその掲示板に記録され、掲示板を閲覧した人全員がその書き込みを見て、コメントに返信することが可能であるという代物である。「チャット」とは英語で「chat」と書き、chatは「おしゃべりをする」という意味を持つ。インターネットでのチャットはチャットソフトを使い、チャットソフトを使うと入力した文字がインターネットを通じてネット上にある「チャットルーム」という会話をするための部屋に表示される。それを見て、今度は同じチャットルームにいる誰かがコメントを入力し、それを見てまた別の誰かが文字を入力する……そのような文字のやりとりを繰り返すことでリアルタイムに話をすることができる場所をいう。さらにネット世界では……特にチャットでは、日常で使われる言葉だけでなく、チャット独特の用語が発達している。例えば「おはよう」は「おは」、「こんばんは」は「こん」、「よろしく」は「よろ」、という風に簡略化・スラング化されているのである。またこの現象は日本に限らず、英語でも「r(=are)」「ur(=your)」「im(=I'm)」「CUL(=SeeYouLater)」「ROM(=ReadOnlyMember:チャットに参加するだけで発言をせず、ログという発言記録だけを見ている人のこと)」等様々な変化を見せている。
掲示板にもチャットにも共通しているのは、いずれも文字のみのやり取りであるという点である。問題は、チャット用語などの特殊な言語やインターネット社会に慣れることはできても「ニュアンス」「会話上の文脈」「意味・意図」はユーザーの想像力やコミュニケーション能力に依存しているのである。もしそれが未熟な者たちによるコミュニケーションであった場合、そこに軋轢が生じるのは想像に難くなく、今年六月に起こった長崎佐世保の事件などは記憶に新しい。
事件の詳細を説明すると、一日午後零時二十分ごろ、佐世保市の市立大久保小学校で、同小6年女児が同級生の女児にカッターナイフで首などを切られ、被害女児は出血多量で間もなく死亡したという凄惨な顛末である。被害者は午前中の授業が終わった後の給食時間に、同級生の女児から校舎3階の学習ルームに呼び出され、その場でカッターナイフで切りつけられたという。その後の調べによると、加害女児は「自分が(被害女児を)目隠ししてカッターナイフで首を切った」「最初から殺すつもりで呼び出した」など落ち着いた様子で説明したことがわかった。この猟奇的な事件の背後にあったのはチャットであり、二人がそこで激しく口論していたということも明らかになった。加害女児はその後長崎少年鑑別所に収容され精神鑑定を受け、その結果、女児には対人関係を築く能力や、コミュニケーション能力など、社会生活を送る上で必要な能力が同年代の子どもに比べて不足していることが確認された。さらに他者への共感などといった感情の乏しさも指摘されるなど、広汎性発達障害を疑わせる症状がみられたが、精神面の明確な障害は確定できないと判断された。発育途上の子どもは、大人に比べて確定診断することが難しいケースが多く、診断基準を満たすまでの顕著な症状を確認するのは簡単ではないという。しかし加害女児に、前述の想像力やコミュニケーション能力が不足していたのは行動や言動より明らかであり、チャットを利用するに相応しくなかったのは間違いない。「殺人を犯す」という最悪の犯罪の結果を想像できない、加害の女児に暴力行為への自制がなぜ働かなかったのか、社会の状況を含めてそれらを大人が内省してみることも不可欠である。
インターネットコミュニケーションでのもう一つの特性として、相手の顔が見えないという点がある。インターネット上で相手を確認する場合、基本的に名前(ハンドル)でしか相手かどうかを判断する術はない。その名前すら誰かわからない、所謂捨てハンドルであったならそこでの発言は「匿名」での発言ということになるが、それを利用して巨大な掲示板に発達した「2ちゃんねる」というサイトがある。「2ちゃんねる」は管理人「ひろゆき」(西村博之氏)の運営する掲示板の集合体サイトであり、膨大なカテゴリー数に区分された何種類もの掲示板が用意されている。来訪者がその中から自分が興味のありそうな掲示板を見つけてそれを閲覧すると、それ以前にそこに書き込まれた多くの発言・情報が一挙に現れる、というシステムになっている。2ちゃんねるは現在その利用者が二百万、三百万人かと言われているが、正確な人数はわからない。それほど多くの人が利用しているということになるが、ここまで拡大した最大の理由は『匿名で書き込むことが基準になっている』ということである。
”2ちゃんねるは、現在、全てのIPアドレスまたはホスト情報を記録しています。ですが、利用者さん同士では、基本的に接続情報などが知られることはありませんので、匿名と考えていただいても差し支えありません。なお、荒らしなど迷惑行為があった場合、接続情報等を公表することもあり得ますのでご了承ください。”(「2ちゃんねる」より引用)
つまり、最低限度のルールさえ守れば、いかなる内容の書き込みであっても許されるということである。2ちゃんねるに書き込む心得として「発言が面白いこと」が掲げられているが、これは管理人のひろゆきが掲示板という特性を生かし、また掲示板の参入のためのハードルをできうる限り下げることで、自然に、必要とされるような情報を与える・集めようとする人が増える仕組みにしているのである。相手が見えない、相手もこちらが見えないという匿名の特性のため基本的に誰が何を書き込んでもよい。だからこそ2ちゃんねるは加速的に来客を増やし、個人HPでありながら日本最大の掲示板になりえたのだが、誰でも書き込めるということは当然掲示板やチャットでコミュニケーションをうまくとれない人も参加できるということである。2ちゃんねるは非常に多くの本音が飛び交っているため、「氏ね、逝け(=死ね、と同義)」「厨房(=中学生、しかし多くの場合は「精神レベルが低い」という意味で使われる)」という粗暴な単語も頻繁に出現する。しかしインターネットでの発言というものは言葉のみの情報であり、ニュアンスまで知ることはできない。例えば「死ねよw」(w=笑い、と同義。しかし微笑なのか、嘲笑なのかなど、判断するのは文脈による)という書き込みがあった場合、それのみでは洒落で言っているのか罵倒の意図なのかは不明である。またそのようなコメントを受けた人がそれをジョークと受けるか本気ととるかはまたその人の判断力に委ねられるため、2ちゃんねるではほとんど日常茶飯事のようにどこかで口論・罵倒の嵐が繰り広げられている。また粗暴な単語でなくとも、「元気だよ」という発言からその人がどれくらい元気なのか、本当に元気なのかは知ることができない。顔見知りなら確認の方法こそあれ、匿名ならばなおさらである。2ちゃんねるがしばしば「便所の落書き」と評されるのは、そこから生じる誤解やフレーミング(争い)などのアンダーグラウンドな雰囲気ばかりに焦点が当てられているのが一因であろう。
”語は意味を所有しない。意味を所有するのは思考であり、語は空虚な外皮にすぎない”(モーリス・メルロ=ポンティ(仏)
まさしく言葉そのものでなく、それを受け取る人間の考えのほうが重要であるという格言である。
現実世界でのコミュニケーションを拒否し、インターネットでのヴァーチャルなコミュニケーションばかりに入り浸る人も増えている。実際に顔を合わせると言えないこと、全く知らない相手だからこそ話せることはたしかにある。チャットはそれらの要素を含んでいながら、リアルタイムで返事を返してくれる相手の人格がある。そんな世界に惹かれるのは好奇心のためであり、それは日常のリアリティがありつつも、平坦な日常からの脱却を模索するには最適な場所だ。チャットにはまるのは日常にリアリティがないためで、チャットにリアリティを求めているのである。しかしチャットをするということはリアルな社会的生活を一時的に放棄しているとも言え、その間、間違いなく実社会との関係は多かれ少なかれ希薄になるのではないか。
チャットにはまる理由として、その人のリアルの社会的背景の一つに社会的共通の目標の喪失があるのではないだろうか。チャット生活に染まる人は社会的な何らかの目標を失ったか、感じないか、という共通性があり、それはアンデンティティ(自我同一性)の問題である。アイデンティティは社会的共通の目標がある中で、社会−個人の関係を考える上で欠かせない概念だ。個人中心から脱個人の人格が身につき、社会化されていく。つまり、社会の中で自分の位置や役割をみずからが感じ取り、実践する、その根源こそがアイデンティティなのである。アイデンティティを喪失・放棄している現代社会で、アイデンティティを明確にしないで生きている人間を「モラトリアム人間」(小此木啓吾:精神科医)という。チャットにはまる人はアイデンティティを喪失していることがままあり、そんな人は実社会や集団の中で生きがいを失っていれば、次に個人レベルの欲求を満たすことをチャットに望み始めるのである。政治的・社会的な「生きがい」を彼らはあまり考えられない。
”国家・社会や思想・イデオロギーよりもまず自分のことを考える自分本位という点で裸の自己愛を傷つけまいとする心理”(小此木啓吾)
チャットはコミュニティではあるが、そこへの参加は強制でも義務でもなく、帰属もないので厳密にはコミュニティとは言えない。そこにチャットの「気軽さ」があり、親密になるほど傷つく可能性のある人間関係を深めようとしなければそれが叶う場所なのである。精神分析学に「ヤマアラシのジレンマ」という話がある。『寒い日にヤマアラシ二匹が体を寄せ合う。最初は互いのとげが刺さり痛いが、次第に丁度よい距離を見つける』。ショウペンハウエルの寓話よりフロイトが論じたものだが、とすると、傷つけあうのを恐れていては適切な距離を見つける相手も見つからないのではないか。自己愛がすぎると相手との関係性を親密にすることなど不可能である。
これからもインターネット社会は拡大の一途を辿るだろう。情報網の拡大はそのまま情報化社会の発展に繋がるためで、それに比例してヴァーチャルなコミュニケーションに接する人口もこれから伸び続けるだろう。では、そんなとき我々に必要なものは結局何なのだろうか。掲示板やチャットにはログという会話記録が残るが、ただそれを読むだけでも誰かと繋がっている安心感が生まれる。ということは、日常で孤独感を感じているということではないだろうか――孤独感とは、社会的な行為の願望基準と達成基準の食い違いから生じる不快な経験のことである。人の社会ネットワークがその願望より小さいか、また心理的な満足を低下されるときに孤独感が生じるといわれる。孤独感については、五十嵐祐が「CMCの社会的ネットワークを介した社会的スキルと孤独感の関連性」で述べている。
1.社会的スキルが「FTF(FaceToFace=オフライン)」の社会的ネットワークの形成に影響を与え、孤独感を低減する役割を持つ。
2.社会的スキルがネガティブな感情傾向を引き起こし、孤独感を高める。
3.社会的スキルが「CMC(ComputerMediatedCommunication=オンライン)」の社会的ネットワーク形成にも必要である。
4.FTFの社会的ネットワークは孤独感を低減させるが、CMCの社会的ネットワークは孤独感を低減させない。
つまり、社会的スキルは現実社会(オフライン)でもインターネット社会(オンライン)でも必要であり、社会的スキルがないためにチャット依存に走っても孤独感は低減されないということである。インターネットやそれに伴う掲示板・チャット人口の増加はおそらく確実であろうが、同時に社会的スキルを持った人口も増やさなくてはいけない。自分の居場所・役割を知り、他人の気持ちを配慮することができる、そのような基本的な社会的スキルを持ち合わせて初めて、インターネットを活用することができるのだろうから。
チャット依存症候群(渋井哲也・教育史科出版会)
2ちゃんねる宣言(井上トシユキ)
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