「力」の哲学 現代と哲学 (田畑)2005秋

(1)ことわざの中の「力」

 ことわざに「田舎の学問より京の昼寝」というのがあります。京に住む者から見れば、田舎の学問はいくら頑張っていてもどこか的外れなので相手にする必要もない。こういう揶揄(やゆ)なのでしょうか。それとも、いつも昼寝をしている不勉強の者でも京にいるだけで田舎の学問より偉そうに振舞える。こういう揶揄なのでしょうか。いずれの場合にしても、価値ある情報は「力」の周辺にしかない、価値ある情報と「力」は一体である、こういうことを語っているわけでしょう。

ことわざは日常知の自生的堆積物です。歴史的に堆積したありとあらゆることわざが、状況に応じて適宜プラグマティックにピックアップされ、訓戒的に用いられるのを待っているのです。ところで、ことわざ集を読むと「世界を力の相(そう)の下に観()る」視点が結構目立ちます。

例えば、「金で面(つら)張る」「泣く子と地頭には勝てぬ」「勝てば官軍」「親の七光り」「地獄の沙汰も金次第」といった周知のことわざが思い浮かびます。これらはいずれも、この世界では「力」が「道理」に優先するのだということを確認しているのです。

そういう確認から、次に「力」への「賢い」対処の忠告も出てくる。「寄らば大樹」「犬になっても大家の犬」「長いものには巻かれろ」「尾を振る犬は叩かれず」などがそれでしょう。「道理」にこだわるよりも「力」の恩恵にあずかる工夫をしなさい。これが「賢さ」になります。逆に言えば「ごまめの歯軋(ぎし)り」のような、「道理」にこだわる弱者への嘲(あざけ)りにもなります。先の「田舎の学問より京の昼寝」とか「金持ち喧嘩せず」「地位は人をつくる」「釣り合わぬは不縁のもと」などにも、このような嘲りの響きがあります。

もちろん無力な人々の中にも「力」がある。「地震雷火事親父」のような「プチ(小さな)権力」を扱ったことわざがありますし、「女は氏なくして玉の輿」のように「女」も容貌や器量次第で、「力」をひきつける「力」という、男にはない「力」を持つ。「一押し、二金、三男」は、金よりも男前よりも押しの強さが女性の心をゲットする「力」になるという知恵です。「一寸の虫にも五分の魂」は、いかに無力な人間でも「誇り」に由来する「力」を持つことを忘れるなと訓戒しています。これとは対照的なのが「下いびりの上へつらい」で、上への卑屈と下への傲慢を同居させている人間への侮蔑が語られています。

それでは「力」さえあれば万々歳と見ているかというと、決してそうではありません。「出る杭は打たれる」「誉(ほまれ)は謗(そし)りのもと」のような「力」へのルサンチマン(嫉妬感情)に目を向けることわざもある。「売り家と唐様で書く三代目」「人の情けは世にあるとき」「驕れるもの久しからず」など、「力」の儚(はかな)さを扱ったことわざが多いのも周知のとおりです。

このように、「世界を力の相の下に観る」ことの重要性は、歴史世界についてだけでなく、日常生活世界についても確認されねばならないことがわかります。では日常生活世界ではどんな「力」が働いているのでしょうか。


(2)貨幣

なんといっても「金で面張る」「金持ち喧嘩せず」「地獄の沙汰も金次第」の「金(かね)」の「力」があります。どうしてお金は「力」を持つのでしょうか。お金は商品世界の中でどの商品とも交換可能という「例外」の地位を独占しています。だからお金は商品世界の王様なのです。そもそもお米であれ、労働力であれ、鉄であれ、ケータイであれ、何であれ、かならずお金との関係で自分の価値(価格)を示さないと商品世界に入ることができない。しかも、お金を商品と交換する「買い」は子供でもできるが、商品をお金と交換する「売り」は「命がけの飛躍」(マルクス 1818-83 19世紀ドイツの思想家)であり、失敗すると生きていけない。だから「お客様(=お金様)は神様」なのです。

しかし生活に必要なものを買うためのお金(交換手段)と他者を支配するためのお金(搾取手段)とでは規模も意味もまったく違います。私が現に使えるお金は生活手段を獲得する「力」しかもっておりません。しかしもし大金をもっておれば、それを元手に労働力を購入し、職務命令権を含む経営権力を掌握できます。この場合には、お金は他者を支配できる「力」をもつのです。


(3)地位

お金と並んで基本的な「力」に、「下いびりの上へつらい」や「地位は人をつくる」の「上」や「地位」、つまり「権限」と一体の「力」もあります。組織のリーダーは、自分の意志で他者を雇用・解雇、登用・罷免したり、職務上の命令をおこなったり、組織のお金や商品や土地や建物を処分したり、価値ある情報にアクセスしたりできる「権限」を持っています。この「権限」は、生まれ、選挙、拠出金、習俗などにより「正当化」されています。

ところでこの「力」の実質は個人自身の「力」でなく、組織され結合された諸個人の「力」(「社会的諸力」)なのであり、地位の「力」はこの「社会的諸力」を動かす「力」なのです。だから零細企業経営者の「力」から合衆国大統領の「力」まで、ピンからキリまである。 

「力」により動かされる諸個人から見れば、自分たち自身の結合された諸力が自分たち自身の結合された諸力としてでなく、「他者の意志の権力として彼らに対峙する」(マルクス、同上)のであって、この意味で「力」は「社会諸力の外化形態」なのだと言えるでしょう。特定の個人または集団の「力」が、その「力」の実質を構成している人々に対立して「疎遠な力」として立ち現れる場合、この「力」(「外化」された「社会的諸力」)は「権力」にほかなりません。

 この「力」は、国家権力や経営権力だけではない。地域有力者とか父親とか仲間グループのリーダーの中にも権力の論理は働いているでしょう。しかしそこでは「力」は、感情や慣習に支えられたインフォーマルな「力」という形をとっております。 

(4)能力

ことわざは伝統的日常意識を堆積させているせいか、「犬になっても大家の犬」「釣り合わぬは不縁のもと」のような、家業や家格の「力」に焦点が当たっています。「金持ち」や「地位」も個人の属性というより、「家」の属性と見られている節もある。だから、ことわざでは能力主義的な「力」の意識は希薄です

しかし現代の日常生活世界では、能力の優越という意味での「力」の位置はきわめて大きい。この「力」は、直接には個人がもつ可能性(潜在能力)の開花なのです。生活上、学習上、職業上の基本スキル(技能)からはじまって、スポーツ選手、アーティスト、経営者、政治家としての「力」まで、すべて直接には個人の可能性の開花として見ることができます。しかし、それは同時に競争戦を通して「一流大学」や「一流会社」や高度専門資格やテレビ出演や全国優勝や知名性などへとアクセスする「力」でもあります。つまりは「地位」や「お金」という制度的な「力」にアクセスする「力」でもある。潜在能力開花は、制度的な「力」へ向かって個人をエンパワーするプロセスと裏表になっているのです。そして競争戦は日常生活世界の中で「力への意志」(ニーチェ、後出)がもっとも強く働く局面であるといえましょう。

(5)暴力

日常生活世界で働く「力」として深刻な意味を持つものに、インフォーマルな暴力や攻撃の「力」もあります。ただし日常的暴力の多くは、激情型であって、挑発事象に直面して攻撃情動が抑止できなくなり、「切れた」状態で攻撃反応に移ってしまい、緊張エネルギーが発散するとともに我に返って後悔するという形をとる。自分の意志で他者を支配するというよりは、逆に情動に自分が支配された状態なのです。

ところが非行グループや暴力団の場合、日常的権力としての私的暴力は、それなりに戦略的に動きます。挑発事象に対して状況を的確に認識し、計算をした上で攻撃するなり威嚇にとどめるなり和解条件を提示するなり相手を分断するなりして、目的を達成しようとするのです。

夫の暴力、躾の暴力、息子の暴力などの家庭内暴力の多くは激情型であって、虐待死や家庭内殺人などの悲劇的結末を遂げる場合も多いのです。しかし現在の日本でも約4割の妻は夫の暴力を体験しているとされており、男=夫=父の制御された戦略的暴力が、お金の「力」や地位の「力」と結合して、日常的権力を構成しているという面も見ておかねばならないでしょう。

私的暴力という「力」は公権力や近隣社会から隠れた空間で働く「力」です。この場合の「力」の優劣は、必ずしも筋力や破壊力の優劣だけではありません。「賭け金」の違いというのも大きい。一方が世間体や名声や将来の地位を断ち切り、それらによる拘束を感じることもなく、体を張ってアウトローの暴力に出てくる。ところがこちらは「嫌がらせされる」という最小リスクすら負担したくないのです。そうである限り、彼我の「力」の差は歴然としています。私的暴力に直面した場合、まずはこの面での「力」の落差を埋める覚悟が問われるでしょう。

(6)権威

権威の「力」も大きい。親、医者、教員、宗教者、有力者、天皇などは、過去の実績や現在の肩書きが日常生活者により信頼・尊敬・妄信されています。したがって彼らは自分の意志に他者を自発的に従わせる「力」をもっているのです。権威自体は、日常生活世界では不可欠なものでして、生活者はこれらの権威に「準拠」することにより、自分の行動の善悪、正邪、有利不利、有効無効などをいちいち自分で判定、検証する労苦を省くことができる。判断力の未形成な子供が権威を必要とするのは明白でしょう。大人になっても生活者は時々刻々の即断を迫られ続けるので、権威への「準拠」は不可欠なのです。

しかし権威は権力へと転化しうるし、権力は必ず権威を伴うという事実も見ておかねばなりません。権威の積極的意義は自立的判断力の未形成や即断的決定の必要性との関連で語られるのですが、権威が自立的判断力の抑圧や退化につながると権威主義になります。

(7)支配的生活様式や常識

支配的な生活様式や常識、習俗、モラルなどの社会規範も、諸個人を拘束する「力」を持っています。この「力」は逸脱者を「非常識」「奇人」「変り者」「悪いやつ」「自分勝手」「私利私欲」などとして非難し、社会的に排除する形で働きます。したがってこれらの「力」は、忠告する両親や先輩や先生の「力」、非難し軽蔑し排除する他者の「力」、自分自身の「良心」や「超自我」(個人に内面化された社会規範)の「力」、などを媒介にして働く「力」です。この「力」は、法律のように市民が代表を選んで自覚的に、かつ意味を限定して、明示的に決めたルールが市民自身を強制するという体裁を取っているわけではありません。自生的に形成され、自生的に共有され、自生的に強制される「力」として、きわめてアバウトに働く「力」であり、だからこそ、社会生活の実態としては、法律以上に根本的な意味を担っている「力」だと言えます。有力者の団体、伝統的宗教団体、学校、職業団体、社会運動諸団体など社会諸勢力の「知的モラル的ヘゲモニー(主導権)」(グラムシ 1891-1937 20世紀前半のイタリアの思想家)をめぐる対抗は、こういう自生的「力」を前提し、それらを方向付ける形で働きますが、またこれら自生的な「力」に包摂されるのです。


(8)公論

民主制のもとでは「公論(public opinion、世論)」は、公権力や経営権力など強大な力をコントロールする「力」であることが期待されています。公論の「力」は、言論や表現や結社の自由の保障、権力から独立したジャーナリズムの定着、反政府政治諸勢力の活動の合法性などを前提にしています。理念としての「公共性」は、市民が言論空間に参画することを通して、自らの私的意見を浄化すると同時に、公論によって権力をコントロールする「力」を発揮することにある。対抗勢力(カウンター・パワー)も議論や闘争を通して市民の支持を獲得し、政治的モラル的な「力」を獲得しなければならないのです。

しかし、ハーバーマス(現代ドイツの哲学者)が『公共性の構造転換』(1961で分析したように、実態としての「公共性」は、今の所、政治に参画する条件も意志もない大衆の登場、権力側の宣伝の場と化す言論空間、公論より知名度publicity)で投票する市民、官僚の実質政治支配の深化などの傾向もしめしています。この面から捉えると、例えば「たけしのテレビタックル」をテレビで楽しむというようなあり方が日常生活世界の中の政治となり、その「力」はテレビ局の番組制作方針に影響を与える程度にとどまるということになります。


(9)「力」の概念

自然科学では「力」は引力とか斥力(離れようとする力)とか重力とかからなっていて、「力学」がこれらを体系的に扱っております。しかし生活世界で言われる「力」とは包括的に言えば、自分の意志に基づいて自然やモノや他者や自分自身を動かす(変化させる)能力だと、とりあえずは言えるでしょう。身体運動により直接に、または道具を介して間接に、自然やモノを動かし変化させる「力」もあれば、努力や訓練や闘いで自分自身を変える「力」もある。しかし「力」の中心問題は、なんと言っても他者を動かす「力」でしょう。これも暴力や法令や権限や慣習を背景にした命令=強制の「力」と、お金と交換したり、コミュニケーション行為で同意を形成したり、象徴を操って権威を感じさせたり、エロス的に魅了したりして、他者が自発的にこちらの意志に沿って動くようにする「力」とに分かれます。

前者では関係の「非対称」が明示的ですが、後者では「非対称」な関係は「対称的」な関係という外見を伴っています。外見はどうあれ、自他の「力」の関係において、この「非対称性」が構造的な安定性を獲得している姿が「支配」ないし「権力」だと言えるでしょう。しかしこれは「支配」ないし「権力」の形式的な規定です。「力」の実質面から捉えると、「支配」ないし「権力」は、相互孤立的な諸個人を束ねて「社会的諸力」を組織化しているという面がクローズアップされてきます。「支配」や「権力」は伊達や酔狂で存在しているのではない。「社会的諸力の外化形態」というマルクスの「権力」論は、この両面を押さえているわけです。

(10)ニーチェの「力への意志」

「力」を存在論の基本に据えて、近代のニヒリズムに立ち向かおうとしたのは、後期のニーチェ(1844-1900 19世紀ドイツの思想家)です。この思想実験は、ニーチェをナチスに売ろうとした妹エリザベートの「実践」も絡んで、好悪、賛否、糾弾・擁護の激しい対立を生んできたわけで、これは今日も続いていると思われます。ニーチェにとって生きることは「力への意志」そのものであり、支配や搾取そのものである。平等や平和の主張は「力への意志」の萎えたもの(デカダンス=生の退廃)である弱者が強者に対して示す嫉妬感情(ルサンチマン)に他ならず、弱者の強者に対する闘いにほかならない。

「生そのものは、本質上、他者や弱者をわがものにすることであり、侵害することであり、圧伏することであり、抑圧・峻酷であり、みずからの形式を他に押し付けることであり、摂取することであり、少なくとも、もっとも穏やかに見ても搾取である。…生きている団体は力への意志の化身でなければならないだろう。それは成長して周囲をつかみ、自己に引きつけ、優勢を占めようと欲するであろう。それも何らかの道徳性や不徳性からでなく、むしろそれが生きているからであり、また生はまさに力への意志であるからである」(ニーチェ『善悪の彼岸』259節、木場深定訳)

「あらゆる時代の弱者や凡庸なものたちの根本傾向は、より強いものたちを弱化せしめること、引きずりおろすことであり、その主要手段が道徳的判断である。より強いもののより弱いものに対する態度は烙印を押され、より強いものの高級な状態は悪しざまな別名をつけられる。多数者の少数者に対する、凡俗なものの稀有なものに対する、弱者の強者に対する闘争。」(『権力への意志』345節、原祐訳)

 ニーチェのこれら毒気ある言葉から皆さんは何を考えるでしょうか。

課題

(1)「力」についての自分の考えを、ことわざを解釈する形で語りなさい。☆☆

(2)貨幣、地位、能力、暴力、権威、常識、公論など様々な「力」の相互関係を説明しなさい。☆☆☆

(3)「力」を肯定的に見る思想と否定的に見る思想を対比し、自分がどちらに立つか、理由を含めて解説しなさい。☆☆

(4)「権力」としての「力」が暴走しないためにはどうすればよいか。☆☆

(5)ここに紹介されたニーチェの言葉を論評しなさい。☆☆