幸福について 現代と哲学 05秋
(1)幸福とは
幸福は、人生を反省する形で、主要な肯定的価値が実現していると当事者に感じられているような、心的状態(感情)であると言えるでしょう。だから幸福には、価値判定されるべき人生、これを判定するための価値尺度、それに感情形式での価値判定という3つの側面があることになります。
これは幸福の形式的規定ですが、幸福の実質(主要な肯定的価値)が何かを規定しようとすると、人により、時期により、地域により、階級により、情況により、まったくさまざまであることがわかります。人間は全員幸福を求めていますが、幸福の実質はきわめて多様であって、ここに幸福論の難しさがあります。「あなたはこう生きれば幸福になる」「この宗教に入信すれば幸せになる」「スピリチュアルに生きれば幸せになる」といった種類の、思い込みの強い断言的メッセージを聞くときに感じる違和感や空々しさはここからきます。また「最大多数の最大幸福」(ベンサム1748-1832 イギリスの功利主義哲学者)を社会理論の基礎におこうとする立場の難点、つまり「幸福の総量」を規定しようとして幸福をひとつの質に還元しようとすることの無理もここにあります。
では幸福については形式的にしか規定できず、その実質については何か普遍的なことが言えないのでしょうか。たしかに幸福はすぐれて実存的で、一人一人の人生にユニークなものですが、普遍性などないと断定してしまうと、幸福の実質はまったく主観主義の世界に嵌まり込んでしまいます。大切なことは、人生の基本的諸価値も構造的なものであって、実存的なものは構造的なものを「織り込み」つつ、ユニークに生きられているのだというアプローチでしょう。
(2)幸福の語源
語源から見ておきましょう。英語のhappyは、happenのhapp(偶然・幸運)に「~な」の-yがついたもので、luckyも、luck(運命、めぐり合わせ)に「~な」の-yがついたものです。フランス語のbonheurもbon(good)とheur(chance)の組み合わせです。日本語の「しあわせ」も「仕合わす」(うまくはからってふさわしい状態になるようにする)からくるもので、めぐりあわせ、運を意味します。「最近は不運続きだ」ということを、昔の日本人は「この間はうちつづいて仕合せが悪しゅうござる」などと言ったそうです。つまり英語もフランス語も日本語も、幸福は運、めぐりあわせにほかなりません。
漢字の方で見ますと、「幸」は「夭」(若死・災害)に「屰」(さえぎる)が付いたもので、災害を避け、災厄から逃れることを意味し、「福」は「示」(神)に「畐」(酒つぼ)が付いたもので、祭りに参加した人が授かる神酒、神の授かりものを表すということです。英語にはfelicity(至福)という幸福をあらわす言葉もありますが、これもfelicitate(祝福する)から来ています。つまり幸福というものは「神の意志」に基づくのであって、神から「授かる」ものだということになります。語源が伝えているのは、近代よりはるか以前の幸福観でしょうが、それによると幸福は主体的努力の結果ではなくて、運と授かり物だということになります。そういうイメージで人々は自分の人生の禍福を反省していたということでしょう。
(3)「幸福な人生」の諸類型
では現代の日本では「幸福な人生」とはどんな人生だと了解されているのでしょうか。いくつかの類型を列挙してみましょう。
①「豊かな人生」
まずは何と言っても「豊かな人生」でしょう。これも語源を見ておきますと「富」は家に酒樽がいっぱい詰まっている状態、「豊」は高杯(たかつき)に穀物が山盛りの状態、そして日本語の「とむ」は積むを意味します。他方、主体面で見ると「饒」(じょう)はゆとり、「裕」はゆったり、日本語の「ゆたか」も「ゆた・か」で、やはりゆったりした状態を表します。つまり昔の人々にとって「豊かさ」とは、客体面ではお酒や穀物などの食物が山盛りのイメージ、主体面ではゆったりした状態を意味していたようです。
食住衣の物質的生活条件の窮乏からの自由としての「豊かさ」は、昔も今も変わりない幸福のもっとも基底的な条件でしょう。窮乏が支配的な時や所では、これこそが幸福の最重要条件でしょうが、物質的欲求が基本的に充足されているところでは、幸福の「必要条件」ではあっても「十分条件」ではないことになります。
また「富」の支配的形態は歴史的に変容していきます。前近代の狩猟社会や農業社会では「富」は現物形態(「おまんまが食える」「雨露をしのぐ」「蔵を建てる」など)で現れますが、近代になりますと貨幣形態(「お金持ちになる」)や商品形態が「富」の支配形態になります。すでに前近代社会でも、過剰な金銭欲は「ゆた・か」というより、金銭的欲求や所有欲への「隷従」を意味するとして非難されておりました。まして今日の飽食、使い捨て、「記号の消費」などに見られる欲求操作、過剰労働、過剰消費がはたして「ゆた・か」なのか。こういう懐疑が広く聞かれます。今後、「富」の基本形態は、自由時間形態(「ゆとりある人生」「豊かな時間が流れる」)や人間関係形態(「豊かな人間関係」)へと根本的にシフトする必要があります。生産性上昇分は貨幣でなく自由時間で分配されるべきでしょう。
②「意味ある人生」
我々は「生きる意味」(生き甲斐)や「他者の承認」を渇望する存在であって、この面から幸福を見ると、「意味ある人生」ということになります。つまり、自分のしていること、自分が行った仕事、自分の作った作品、自分の闘い、自分の生きた人生が「意味あるもの」「生きるに値するもの」として、他者により承認され、だからこそまた積極的に自己評価できるということ、これが幸福の条件なのです。
しかし「意味」の実質もまた、多様であり、歴史的に変遷します。戦前であれば「国や家に殉ずる」「立身出世」「男の甲斐性」「故郷に錦を飾る」などでしょうが、戦後には「一流大学一流企業」「マイホーム」「権限を与えられやり甲斐ある仕事」などにシフトしました。昨今では、イチローや中田のようなニュー・ヒーローがそうであるように、帰属集団にではなく、「自分に忠実」「オリジナル」「オンリーワン」など個性的な生き方に「意味」を求める傾向が強まっております。しかし「近代世界システム」を超える「意味」として「オールタナティヴ」(対抗的諸価値)、「グローカル」(偏狭でない世界市民的なセンスでコミュニティー形成)、「アソシエイティヴ」(自立したものどうしの共働)なども地球規模で顕在化してきております。
③「頑張った人生」
これは自分を開花させた、目標が達成できたという自己実現ですが、否定の否定というプロセスを通して実現したんだという意識です。幸福は静止状態ではなく、→不幸→幸福追求→幸福→不幸→というプロセスの中の一局面にすぎません。つまり私の状態は私の尺度から不断にズレ、そのつど合致努力(状態変更と尺度変更の両面で)がなされるのです。そして不幸が小さければ幸福も小さく、危機が深ければ深いほど達成感、幸福感も大きい。もちろんある限度を超えた絶望的な不幸は幸福追求の断念にも繋がる。だからこの幸福はドラマ的な幸福と言えるでしょう。水前寺清子の応援歌風の単純頑張り人生もあります。しかし困難や危機や苦悩や労苦に押しつぶされそうになりながら、かろうじて危機を乗り越えるというのが「頑張り」の実相ですから、この幸福類型には、自分の弱さの自覚、偶然への感謝、自分を超えた存在への畏敬の感情が伴う場合も多いのです。
④「ラッキーな人生」
我々の幸福の多くは、時代や他者との「よき出会い」(「よき伴走者」「よき友」「よき伴侶」「よき時代」)に支えられています。だからこれは「ラッキーとしてのハッピー」であって、前近代社会の幸福観で支配的だったものですが、今日も有力な幸福類型のひとつであり続けております。人生は、努力や決意や闘いのような「主体」面と、向こうからやって来る「ラッキー」「アンラッキー」な「出会い」(偶然、運不運)面の二つの糸から「織り込まれる」のです。だから、いかに主体的闘いの成果としての成功、主体的選択の結果としての失敗という面があっても、「幸運」「不運」であったという「偶然への感謝」「不運の嘆き」「主体の限界の自覚」の面が残ります。この面が絶対化され、闘いや主体性を無意味化すると、宗教の多くがそうであるような、感謝主義的諦観主義的幸福論になるでしょう。
⑤「平穏な人生」
これは幸福を不幸(惑い、苦痛、苦悩、不安)の欠如として消極的にとらえる幸福論です。「無事是名馬」であって、多くを望まない。野心や理想主義の現状否定は、かえって他者を不幸にし、自らも不幸に終わる。大きなことを望んでみても仕方がないという諦念が混ざっています。たとえ時代が不幸であり、自分個人の外面的状況(経済面や人間関係面)が好ましくない場合でも、心を乱さず「心の平静」(古代ギリシャのエピクロス342-271)を保つような人生が幸福な人生なのです。「健康第一」や「人様(世間)に迷惑をかけない」もこの「平穏な人生」の系列にあると思われます。
⑥「徳ある人生」
これはモラルに生きる人生です。情欲や私欲に流されず(節制)、お世辞や外面にとらわれず、権力におもねず、たとえ清貧に甘んじても、人の道の道理に従い、誠実に、堂々と誇りを持って生きる人生です。現在の日本にはほとんど見かけられなくなった人生ですが、「ストイック」の語源となったストア派の哲学者たちは、大体において、このような生き方を理想としました。中野孝次『清貧の思想』(1992年、文春文庫)も日本古来の文人や庶民にあったシンプルライフの理想を描いています。最近ではエコロジー運動をおこなう人たちが高い精神性に価値を置く「スピリチュアル」な生き方を追求しております。
⑦「楽しい人生」
くよくよ、ぎすぎすしないで気持ちよく仲良く愉快にユーモアのセンスをもって生きる。「楽しい人生」は現代日本の若者の幸福観の中心にあるように思われます。もちろん娯楽だけで「楽しい人生」とはなりません。では、どうすれば「楽しい人生」が実現するのでしょうか。
天理教の教義にも「陽気暮らし」「陽気遊山」があります。これは心の底からわき出る陽気につつまれた明るい暮らしのことで、楽しく晴れやかな、とらわれのない心で毎日を過ごすことが天理教信仰者の目標とする暮らしであり、「親神様」が人間を創造された目的でもある、とされております。
(4)「幸福」の分析
つぎに幸福について、分析的に考えてみましょう。「幸福とは、人生を反省する形で、主要な肯定的価値が実現していると当事者たちに感じられている心的状態である」という我々の幸福定義を前提しますと、幸福は①人生レベルで反省された生活状態(S)、②主要だと思われている諸価値(価値尺度)(M)、③感情的形式での価値判定としての幸/不幸(B)、の3つの契機からなっていることになります。そしてこれを、図示すると図1のようになります。

幸福は、私の人生状態と私の価値尺度の2つの変化ファクターを持っています。「私はフリーターから正社員になった」「私は交通事故にあった」などは、私の人生状態SがS1からS2へ変化したことであり、「私はあれ以来世間体など気にしないで自分に忠実に生きることにした」とか「市民運動に参加して考え方が変った」などは、価値尺度MがM1からM2に変ったということです。ともすれば人生状態の変化だけに目が行きますが、通常はこの両面が相関的に変化します。たとえば夫の暴力に耐えていた妻が自立と決別を決断するとか、会社に忠勤していた人がリストラに合い、管理職ユニオンに加盟して闘う、というようなケースを考えると、最初にS1からS2に事態が悪化して、次にM1がM2に変り、この「価値の転倒」を梃子として、今度はS2を主体的にS3へと変えるのです。
価値尺度Mを変えることによって幸不幸の価値判定Bが変ることを「幸不幸の価値尺度依存性」と呼んでおきましょう。例えば、硬直し現実離れした「尺度」に囚われて自分や他者の人生を「無価値」「無意味」と断定する「裁く私の肥大化」が「不幸」を生むという側面があります。逆から見ると「自分の現実を受け入れる」「自分と和解する」ということは、自分の現実の中に「意味」を見出すことが可能な「尺度」を身につけるということです。尺度を変えると、不幸な現実を「試練」として、過酷な運命を「平穏な人生では得られない深い人生体験」として、世間並みからの逸脱を「もう一つの生き方の自覚的選択」として「意味づける」道も拓けてきます。
(5)価値尺度の構造的編成
では我々は自由に価値尺度を選択できるのでしょうか。自由が恣意的という意味でならそれはできないでしょうが、自覚的調整という意味でならそれは可能であると言えましょう。つまり我々の自覚的な価値尺度選択は、価値尺度のさまざまな構造的編成により制約されているのです。生命維持、安全、繁殖などは生物としての人間に構造化されている価値尺度でしょう。E.H.エリクソンの8段階説、つまり乳児期の「基本的信頼」、幼児期初期の「自立性」、遊戯期の「自主性」、学童期の「勤勉性」、青年期の「同一性」、前成人期の「親密」、成人期の「生殖性」、老年期の「統合」のように、価値尺度の人格史的段階編成もあります。
また価値尺度の構造的高度化という制約もあります。原初的価値の充足が、より高次の価値の希求を生むのです。アリストテレス『二コマコス倫理学』では感覚的快→名誉による快(政治行動の結果としての)→哲学的観照による快へと高度化が進むと見ています。A・マズロー(1908-1970、合衆国の人間性心理学創始者の一人)の欲求高度化論もよく知られていますが、生理的欲求充足→安全の欲求充足→所属と愛の欲求充足→承認(自己承認=自尊心と他者による承認)の欲求充足→自己実現の欲求充足へと高度化するとされております。
もちろん現存社会システムが再生産するドミナントな(支配的な)価値の構造もあります。労働市場は「一流大学」、市場競争は「努力」と「成功」、物象化は「お金(収入)」、性別分業は「女の幸せ・男の甲斐性」、近代家族は「マイホーム」、権力システムは「同調主義」、中心周縁構造は「中心志向」などの支配的価値を再生産しているのです。しかしまた現存システムの危機から対抗的な諸価値も構造的に再生産されてきます。エコロジー危機は「オールタナティブな生活」、近代家父長制の危機は「女の自立」、学校体制の危機は「フリースクール」、古い共同性の危機は「アソシエイティヴに生きる」、などです。
人生の諸局面における主要な価値尺度の自覚的編成は、無制約という意味で自由に編成されているのでなく、これらの構造的諸価値を個性的に「織り込む」形で編成されているのです。幸福論によく見られる単純押し付け主義も単純個別主義も、ともに排除すべき理由はそこにあります。幸福論を歴史論や社会変革論との相互関係で見なければならない理由もそこにあります。
また我々は多数の生活価値をもっており、これらの価値尺度をすべて同時に実現するということもありえません。幸不幸は望ましい価値の総体によってではなく、局面ごとに変動する主要価値によって定まるのです。副次的価値から見て、欠けることが多くあり、部分的不幸が山ほどあっても、その局面での主要価値さえ実現しておれば十分に幸福なのです。つまり我々の幸福は通常「多くの副次的不幸を伴う幸福」であって、死という最大の不幸に際してすら、その局面で我々が掲げる主要価値(周りに過度の負担をかけない、安らかな死、感謝の別離、人生の受容、自己浄化など)に照らして、「幸福な死」を実現しようとするのです。
(6)どうしたら幸福になれるのか
「ハウ・トゥー・ビカム・ハッピー」風のタイトルの本が書店の本棚をにぎわせておりますが、これは幸福についての技術知をあらわしております。技術知としての幸福は「人生の知恵」ともいえますが、下手をすると技術主義の危険も抱え込んでおります。我々が留意すべきいくつかの点を確認しておきましょう。
①形式主義的幸福論
「幸福と感じるよう努力すれば幸福になる」というメッセージがこの種の本の中で一番目立ちます。しかしこれは形式主義的幸福論だと見るべきでしょう。なぜなら幸福の二つの実質、つまり価値判定されるべき私の状態Sも、これを判定するための私の尺度Mもまったく問題にせず、また変更することもなく、幸福の感情だけを直接に実現しようとしているからです。
こういう形式主義的幸福論の唯物論ヴァージョンがドラッグなどによる幸福感でしょう。ここでも私の人生状態や価値尺度を変えることなく、脳内物質エンドルフィンの分泌によって幸福を実現しようとしているのです。
②幻想という幸福
もうひとつ、幻想という幸福があります。幻想(倒錯+願望実現)は人間の幸福実現のきわめて重要な形態(倒錯形態)であって、代償的幸福の無意識的メカニズムも詳しく研究されております。宗教という幻想的幸福のための社会制度で見ると解りやすいかも知れません。「この世は涙の谷」にほかならず(共同苦悩で相互慰撫)、来世または信仰共同体内における平和で幸福な暮らし(「極楽浄土」)の幻想イメージで自分を支えるのです。我々は希望で自分を支えているところがありますが、この希望がどう見ても幻想にすぎないと思われる場合が多くあります。しかしこの場合でも、希望に基づいた努力やアクションや闘争が現になされている限りは、それはユートピアであって、単なる幻想ではありません。幻想はイマジネーションそのものが即幸福の実現であるという倒錯にあるのです。だから最近「癒し系」と言われるものなどは、幻想のこの意味に近いと思われます。
③「期待される」幸福
親や周囲は「賢く生きよ」と忠告します。たしかに、親や周囲の人に「見えている」本人の情況が、本人にはまったく「見えていない」という場合がしばしばあります。しかしこの「見えている」の意味が問題でしょう。少なくとも本人が志をもち、労苦や闘争を覚悟して何かをやろうとしているとき、本人はきわめて小さな可能性でも可能性の方を「見ている」のに対して、周りには労苦なしで入手可能な既存の諸条件だけが「見えている」のです。だから期待される幸福はしばしば同調主義(コンフォーミズム)の幸福になります。同調主義的幸福もまた幸福に違いありませんが、人生はユニーク(一人の人間の闘いと出会いの総体)であり、幸不幸の問題はすぐれて実存的な問題であるという観点に立てば、忠告は参照するが、あくまで自己責任で生きるしかないのです。
④幸福基盤の共同整備
必要な生活手段の確保、安全、平和、自由、環境保全などは、それだけで幸福になるとは限らないが、幸福のインフラストラクチャー(共通基盤)であります。そしてこれらインフラストラクチャーは共同でのみ構築可能であり、「アソシエイティヴに生きることを学ぶ」ことが幸福の条件であるということになります。そしてこの共同の努力は「意味ある人生」という幸福の源泉にもなるでしょう。人生の幸不幸のユニークさや実存性を認識した上で、なおかつ社会変革のための共働の必要性も積極的に位置づけるような構えが必要なのです。
⑤不幸から幸福にアプローチ
トルストイの小説『アンナ・カレーニナ』は「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」という言葉ではじまります。幸福論を脱不幸論として立てるのが本来、生活者のやり方でしょう。不幸(危機)では、望ましい価値と人生状態との乖離が、したがって克服すべき課題が具体的に見えます。ある限度を超えた絶望的な不幸は人生の悲劇性へと展開しますが、しかし危機体験を通してはじめて人生を深いところで生きる道も拓けると言えます。
課題
(1)不幸との闘いにおいて「価値の転倒」が持つ意味について、具体例に即して述べなさい。☆☆
(2)「幸福な人生」の諸類型のうち、もっとも自分に近いものを選び、詳しく説明しなさい。☆
(3)メーテルリンク『青い鳥』のチルチルとミチルは「幸せの青い鳥」をさがしてあちこち遍歴した挙句に、自分の足元に幸せがあったことを悟りました。この幸福論を解説しなさい。☆☆☆
(4)「どうしたら幸福になれるか」について、あなたがアドヴァイスするとすればどうなりますか。詳しく解説してください。☆
(5)あなたが人生において実現したいと思う主要な価値をあげて、詳しく説明してください。☆