宗教批判の方法のための三つのテーゼ

季報『唯物論研究』編集長 元・富山大学助教授 田 畑  稔




以下は1987年、東京サンケイホールでおこなわれた国際宗教・超心理学会第15回大会シンポ「人間にとって宗教は必要か」での講演である。同学会編『宗教と超心理』198712月号に掲載された。


秋沢先生が病気で倒れられ,急拠私がピンチヒッターということになりました。昨日秋沢先生をお見舞いいたしまして,皆さんによろしくお伝えしてほしいということでした。主催者側から,今日は宗教に対する忌憚のない批判をお願いしたいということです。今日ご来場のお客様のほとんどはなんらかの意味で宗教的確信をもっておられる方々だと思います。けれども皆さんが宗教批判に触れられる機会は最近とみに少なくなりつつあるのではないかと思います。もちろん50分間ぐらいの私の話で皆さんの確信を覆すということはありえないことでありまして,私自身の生きざまを総体としてさらけ出すことなしに,口先だけで皆様の同意を得るということもありえないでしょう。

ただ,お願いしておきたいのは,皆さんが「あの人の宗教批判はあの程度のことしか言っていなかった,だから私は安心して帰れるわ」という態度に終始なされないようにして頂きたいということです。私がこの研究会の公正さというものを際立たせるという役回りをあえて引き受けたのは,「否定の否定」というのでしょうか,批判者の論理というものにもっと耳を傾けて,その上で自分の信念なり信仰というものを展開していただきたいと考えたからです。宗教者と宗教批判者は変な妥協とかべたべたした関係を追い求めるのではなく,お互いに率直に批判しあう,こういうことが大前提だと思います。今日は,そういうことを前提にいたしまして自分の能力の範囲で率直に私の意見を申し上げたい。

 

宗教批判の方法の確立こそ必要である

 

今日のテーマは「人間にとって宗教は必要か」というものです。私の答えは,「必要な人にとっては必要でしょう。必要でない人にとっては必要でありません」とまあこういうことになります。むしろもう少し問題を限定し「人間というものはどんな社会的,歴史的,個人的条件の下で宗教を必要とするのか,あるいは宗教を必要としないのか」,こういうように問題を立てていただければ,今日的な問題にもっと迫れるのではないか。

ところで主催者側からいただいたパンフレットには,解説のところで「人間にとって宗教は必要か」という問いだけではなくて,「今,宗教は必要か」というふうにも書いてあります。それから,「本当の宗教は何か」こういうふうにも書いてあります。これらの問題はそれぞれずい分意味が違うわけです。

「人間にとって宗教は必要か」,つまり「人間が人間である限り,人間存在のいわば本質的な欲求として人間は宗教を必要とするのか」,こういう問いに対して答えるのと,「今,つまり1980年代のこの時期に日本人がいろいろな問題に直面しているが,こういう問題を解決するために,スペードのエースみたいに宗教は必要なのか」,こういう問題に答えるのとではアプロ一チが全然変ってしまいます。ただ,「今,宗教は必要か」というこの問いの方はずいぶん問題が具体的に立つので,最初の問題よりも皆さんの関心と連続したところで私の議論ができるのではないかと思われます。

もう一つ,パンフには「本当の宗教とは何か」,こういう問いが書いてあります。宗教というものは「本当」のところ一体何であるのか。この問いは宗教をどう定義するのかという問題です。ところが御存知の通り宗教には無数の定義があるのです。定義というのは理屈だけの問題と考える方がいらっしゃるかもしれませんが,それは全く誤解です。「定義する」とはドイツ語でデフィニーレンと言いますが,「意味を限定する」ことです。従って宗教定義とは宗教者がそれぞれの存在をかけて自分における「宗教の意味」を限定することなのです。「私としてはこれこそが宗教だ」,「この生き方こそが宗教的だ」と,こういうふうにそれぞれが限定しているわけです。そしてそれらの「意味の限定」に基いて自分を「真の」宗教に近づけようと努力している。だから宗教批判者の方がこれら無数の諸定義をひとくくりにして, 「いや,宗教は批判されるべきだ」などと申すだけではしばしばバカをみる。バカをみるというのは宗教者の立場からすると,「いろいろたくさんの宗教があるのにこっちを批判しているだけだ,あんな批判をされてもおれの宗教は全然違うじゃないか」,こう言われますと,議論は全くすれ違ってしまうからなのです。

ただ注意していただきたいのは,「本当の宗教とは何か」という問いを総ての人間が共有するわけではないということです。例えば,キリスト教を名のるある教団があって,それがあくどい霊感商法をやっているのだといわれる。それに対してキリスト教の教団側からは,あれは「真の」キリスト教ではない,という批判が出てくる。しかしわれわれキリスト教徒でない人間からは,キリスト教団のように,「真の」キリスト教でないなどといってそういう宗教を批判するわけにいかないのです。同じように,「本当の」宗教とは何か,こういう問いを,私のように宗教批判の立場に立つ人間が共有するわけにいかない。これは皆さんにわかっていただけると思うのです。問い自身が,いわば一つの立場を前提にしているわけです。

それではそういう問いについて私と皆さんは全くからまないのか。からまないことはないと思うのです。つまり,人間というのは常に「真の」あり方を求める。「真理」を求めるという形で自己を批判的に一歩前に進めよう,そういう努力をするわけです。そういう自己批判的努力をいわば「真の」信仰,「真の」宗教の探求という形で宗教者はなされる。われわれのような宗教批判者たちはそれを注視していて,諸々の「真の」宗教のうちのどれか一つを選ぶということはもちろんできないにしても,宗教が,あるいは宗教を総体として構成している宗教諸運動が,自分自身をどのように再限定していくのか、そういう再限定をとおして宗教はどのような方向に動いていこうとしているのか,そういうダイナミズムをそこから受け止めることができる。またそれが真剣な自己再限定的自己批判である場合には内容上,宗教批判者の関心と触れ合う部分がある。そういう意味では,「本当の宗教とはなにか」という問いはわれわれ宗教批判者にとっても重大な関心の対象になりうる。そういうことはいえると思うのです。ただ,私の考えでは,今言った,「どのような歴史的,杜会的,個人的条件の下で人間は宗教を必要とするのか」という問いから始めることによってのみ,宗教を信仰している人々,あるいは宗教運動を構成している諸運動のそれぞれが,「真の宗教とは何か」を問うという形でどこへいこうとしているのか,を明らかにすることができると思うのですが。

以上,前おきが長くなりましたが,「人間にとって宗教は必要か」「今,宗教は必要か」という今日のテーマに対する私の解答は結論的には次のようになります。つまり「今,宗教批判こそが必要である」「単に宗教の批判が必要なだけではなくて,宗教批判の方法の確立が必要である」。これはなにも宗教批判者の宗教批判が必要といっているだけではなく,宗教者自身の宗教批判が必要である。こういう,宗教批判というものの、さらに宗教批判の方法の確立というものの今日的に特殊な必要性,この点はある程度共有できる部分をもつのではないかと思います。

もう一度私の基本的立場を申し上げますと,「今,宗教批判が必要である。単に宗教批判者にとっての宗教批判が必要なだけではなくて,宗教者にとっての宗教批判が必要である。単なる宗教批判が必要なだけではなくて,宗教批判の方法の確立が必要である」こういうことになろうかと思います。

 

第一テーゼ 「宗教者は“真の”宗教とは何かを問いつつ宗教を不断に再限定する」

 

そこでまず,「本当の宗教とは何か」「真の宗教とは何か」という場合のこの「真の」とは一体何を意味するのでしょうか。ドイツの哲学者へーゲル (1770-1831),「真の」ということを二つに分けております。例えば, 「そこに机がずっと並んでいる」という私のこの言明は「真」である,こういう時の「真」ですね。「ここに先生方が5人並んでおられる」それは「真」である。それを「認識論的に真」と,こう申しておきましょう。あるいは,「認識的に真」,へーゲルの言い方をしますと「正しさ(リヒティヒカイト)」なのですが,ある対象とわれわれの表象(認識といってもいいと思いますが)とが一致している。こういう意味で「真」をわれわれは用いているわけです。

しかし,へーゲルのいうように「真」というのはもう一つあって,ある対象がそのものの理念と一致している,あるいは,ある対象がそのものの「あるべき姿」と一致している。こういう時にも「真」という言葉を用います。例えば「真の人間」とか「真の宗教」,こういうふうに言う時にはその「真の」は「認識論的に真」というのではない。例えば信仰者として本来そうあるべきだと考える宗教のあり方と,現にその人が行なっている宗教行動というものは一致する,そういう時の「真」という場合はいわば「価値的に真」ですね。つまり存在するに「値する」,あるいは存在する「べきである」そういう理念とそのものの存在や行為とが一致している。それをヘーゲルは「真理(ヴァールハイト)」として先の「正しさ」から区別しているわけです。

さて,宗教者が「真の宗教とは何か」と問う時,それはもちろん「価値的に真」を問うわけです。先ほど来の先生方の講演を聞いておりまして皆さんも感じられたと思いますが,宗教者というのは,「真の宗教とは何か」という問いをとおして宗教を「再定義」,「再限定」していく。これが私の今日の第一のテーゼ(基本命題)なのです。もう一度申しますと「信仰者は,真の宗教とは何かという問いに答える努力をとおして宗教を再定義,再限定しようとする」,これが私の第一のテーゼなのです。

例えば門脇先生のお話で印象的なところは,「死をしっかり受け止める霊的な力」というところでした。すると「ははあ,門脇さんはその辺りに力点をおいて“真の宗教”を探っておられるのだなあ」と考えることができましよう。秋山先生は,「自分をこえた創造力の体験」を印象深く語られた。堀沢先生は「真実の仏陀」ということを力説された。宗教者はそういう「真の」宗教というものを探求することをとおして,宗教を再定義,再限定しようとする。そしてそういう形で宗教は一つのダイナミズムをもって自己展開していくのです。へ一ゲルの弟子であるフォイエルバッハ(1804-1872)という哲学者は,「神学の内部における神学の否定」「宗教の内部における宗教の否定」という概念で宗教のもつこういうダイナミックなプロセスをみようとしたわけです(フォイエルバッハの主な宗教批判としては『キリスト教の本質』があり,岩波文庫にも入っている)

もう少し他の,今日代表的な宗教定義をいくつか紹介しておきましょう。ドイツの神学者でミナーレクという人が「カール・マルクスの宗教批判」と題する論文を書いております(西独カンペ社『マルクス―今日』1983)。それを見ますと,「マルクス主義も宗教だ」ということをいっております。こういう主張は今に始まったことではないのですが,その場合に注意してほしいのは宗教の彼なりの再定義があるということです。というのは,われわれ一般的なイメージとしては,マルクス主義イコール宗教というわけにはいかないのですから,むしろ「宗教の最大の敵」と言われているのですから,そういうマルクス主義を包摂するものとして宗教をよほど根本的に再定義しなければならない。つまりミナーレクという人は,自分の宗教性というものをまさに「そこに」求める,「そういう」限定からすればマルクス主義も宗教だ,こういうことですね。彼の宗教定義は「宗教とは包括的で,全一的で,意味追求的で,限界超出的な人間の生命衝動である」と。そういう定義がなされております。マルクスがプロレタリアに向って提出したものはまさにこのような「包括的で,全一的で,意味追求的で,限界超出的な人間の生命衝動」の発揮の道であったのだと言うのです。

少し話がそれますが定義という形式はトータルな把握という点からしますと大変欠陥があり,だれでもケチをつけることができると思われがちですが,しかしこういう風に,限定的に圧縮して自己を表現しようという努力は非常に大事なのです。一度皆さんも,他人の宗教定義によりかからずに,自分の体験の反省から宗教「定義」を試みて下さい。するとかえって非常にトータルな反省が進行するはずです。

もう一つ宗教定義を紹介しておきましょう。現在,宗教というのは凋落しつつあるとみる人も多いのですが,しかし,ルックマンというオーストリーの宗教杜会学者がおりまして,この人は,いや,そんなことはない,マイホーム主義が神様になっただけじゃないか,そう考えたらいいので,なにも宗教そのものは凋落してはいない,形態が変わっているだけだ,こういうふうに言うわけです(『見えない宗教』ヨルダン社)。そうすると,そこにも何か定義が潜んでいるわけです。ルックマンの定義は,「宗教とは社会を維持するとともに,個人にアイデンティティを与えるすべての客観的,倫理的意味パタンである」,こういうものです。実際,「社会を維持すると共に,個人にアイデンティティを与える客観的倫理的意味パタン」としては,現代の日本人にとっては「マイホーム主義」が全らゆる宗教形態を圧倒している。お正月は神道,結婚式はキリスト教,お葬式は仏教,不幸のドン底では生き神さん,こういうように宗教自身「マイホーム・マンダラ」風になって来ているのです。

最近ずいぶん読まれているスイスの心理学者ユングのものを読みますと,宗教を「人間が自分を取り巻く世界の中でその威力,危険ないし恵みを十二分に経験したあげく,その存在を慎重に顧慮するようになったり,その偉大さや美しさや深い意味を十二分に味わった結果,虞れ敬ったり愛したりするようになる,一種独特の態度である」,こういうふうに再限定しております (『人間心理と宗教』日本教文杜)

これらの定義を並べてみて非常に興味深いのは,そこに,今日の宗教の一つの方向性というものが示されているということです。宗教として何が生き残っていくのだろうか,宗教者や宗教的思想家はどういう方向に宗教の存在意義を再確認しようとしているのだろうか,こういうことを多少はうかがわせますね。

一つは包括的価値意識,こういう方向ではないか。「全身全霊」とか,「生涯が生きるに値した」という風なお話が先程なされましたが,ミナーレクの「包括的意味追求的生命衝動」もルックマンの「意味パタン」も同じ方向を向いていると言えるでしょう。そういう包括的価値意識の再認識という方向で宗教というものを現代的に意味づけていこうとしている。

第二は,いわば畏敬の感情という方向でしょう。人間をこえた一つの大きな力というものに,人間は畏敬の感情を感じる。これは無神論者といえども持つ。不幸や病気や死に際して日常の生活者の中にもこの種の心理的経験がある。こういうものの中に,なにか宗教の延命の方向とでも悪くいえば言えますが,「真の」宗教の方向を探ろう,こういうのが今日,心理主義的宗教再定義の方向と言っていいでしょう。

あるいは,秋山さんのお話しを伺っていると,旧来の価値規範や旧来の世界認識では覆い尽くせないような何かオリジナルな価値や認識の源泉,あるいは人間の想像力や創造的直観の源泉,そういうものに何か宗教の場を求めよう,そういう方向性が秋山さんの中に働いているように私には思えた。

ここでは,これらの「方向」の是非を論ずるのではありません。私が強調したいのは,そういう方向で「真の」宗教を再定義しようという,そういうダイナミズムの働きというものに注目することは,全らゆる宗教批判の大前提であるということなのです。これが私の第一のテーゼの意味です。全らゆる宗教者,宗教運動は,歴史社会的レベルでも個人的レベルでも,極めてアンビバレントで矛盾と葛藤に充ちたものですから,宗教者は「真の宗教とは何か」という問いを発しつづけることによって,自分の現状打破につとめようとする。けれども宗教当事者達のこのような努力のプロセスを,批判的反省においてとらえると,彼らは意識的無意識的に宗教を「再限定」し,「宗教の内部での宗教の否定」を行っている姿が浮び上ってくる。このダイナミズムをつかまえることは全らゆる宗教批判の要件と言えるわけです。

 

第二テーゼ 「宗教者は真の宗教とは何かを問うことによって真の宗教を見忘れる」

 

次に第二のテーゼですが,「宗教者は真の宗教とは何か,と問うことによって真の宗教を見忘れる」。これが少し奇妙な言い方ですが,私の今日の第二のテーゼであります。

先程来お話のあった「真の」宗教に関する先生方の重要な注目すべき方向づけは,しかし,われわれ日常生活において接する宗教の現実形態とはずいぶんかけ離れたあり方をしています。だから,いわば宗教エリートや宗教的知識人は,彼らの「価値的に真」の宗教を探求することによって,「認識的に真」の宗教,ありのままの「本当の」宗教,われわれが直視したければいけない現実にあるがままの宗教諸形態,こういうものを見失う。これが第二のテーゼです。「宗教者は真の宗教とは何かということを問うことによって真の宗教を見失う」。これは誇張に聞こえるかもしれませんが,一つの意味を理解していただけるのではないかと思うのです。つまり「価値的真」だけを追い求めて,「認識的に真」というのを犠牲にしてはならない。そうでなければ,われわれ宗教批判者の批判の意味もこの種の宗教エリートや宗教的知識人にはまったく伝わらないだろうと思うのです。

例えば「迷信」というものを,今日ここに来ておられる先生たちはどなたも否定するでしょう。あるいは「現世利益などというのはいかんのだ」と,こういうふうに言う宗教者は多いですね。あるいは,「オカルトなんていうのは嘆かわしい」,という人も多い。それから「因習的なもの」,これは仏教教団などで特に問題にされている。それから「権威主義」,一つの教団の内部の人々の関係を見ると非常にカリスマ的な要素が大きい。こういうカリスマ集団が一つの民主主義的杜会を構成するということは一体どういうことなのか。こういう問題が,いや味でなしに,一つの大きな社会問題を教団に対し突きつけているでしょう。それから独善主義。しかし,そういう「因習」や「権威主義」や「カリスマ」や「独善主義」を批判する人も結構多いと思います。

しかし「われわれは,こういう古いものにとらわれず,真の宗教を追求しているのだ」という形でしか,宗教問題を見ないということであれば,やはり非常に大きな手抜かりがある。「それでは本当の宗教じゃないでしょう」と言いたくなる。「本当の」というのはこの場合,現実の,という意味ですが。

むしろ宗教が歴史のうねりの中でどういう役割を果たすかというのは,そういうひと握りの知的な要素というよりも,現実の民衆レベルでの宗教形態というものが,権力なら権力とどういうふうな接点をもっていくのか,こういう形で問われてくるわけであって,そういう意味での「本当の」宗教,宗教の現実形態というものにしっかり目をすえる,こういうところから出発しなければ,「真の宗教を問う,ということをとおして宗教を再定義,再限定しよう」という努力は足元をすくわれるのではないでしょうか。そういう問題が第二の点なのです。

先日NHKのテレビを見ておりますと,例の霊感商法の被害者であるおばあさんと,霊感商法の当事者で,現在は自己批判しているお姉さんが出てきました。私はその実態を調査したわけでもないので,テレビで見聞した限りのことを言うのですが,おばあさんは祖先の霊がわれわれ生者とともにずっといっしょにこの世界を形成していると信じている。しかも,その中の「悪い」霊は,生者の営みに対してなにか「悪い」影響を与えるだろう,こういう幻想をもっているわけです。

そこにお姉さんがやってくる。お姉さんは,おばあさんのような幻想をどうも共有していないみたいなのです。むしろおばあさんの幻想を利用する。つまり不幸+幻想=お金,そういういわば錬金術的方程式で動いているようでした。おばあさんは幻想をもっている。この幻想はある意味で日本人に非常に広くある幻想でしょう。それに不幸をプラスする。この不幸は別に現実の不幸でなくてもよいのです。お姉さんの場合は,おばあさんに対し「このままほおっておきますとあなたの息子さんは癌になりますよ」と脅しをかける。こういう未来の不幸でもよいわけです。かくして幻想+不幸=金ということで,なけなしの1千万ぐらいのお金がおばあさんから出ていく。つまりおばあさんは、@霊障というような自分の幻想に基く,A息子の癌死という幻想的不幸から,B再び幻想的に解放されるため,Cお姉さんの幻想的宗教サーヴィスや幻想的霊力を持つ物品を1千万で買った,ということになります。

では,お姉さんの方はまったく幻想から自由に,おばあさんの幻想を利用してお金をひねり出したのかというと,そうじゃなくて,お姉さんの話では,自分も別の幻想に支配されていた。「この地上はサタンが支配しているのです。サタンが支配している所からお金を取り上げてメシアの方へもっていくということは非常に大事なことなのです,と私は考えておりました」と言っているわけです。お姉さんは2万なにがしかのお金で1ヵ月間,そのような客観約に見れば詐欺師のような生活をしなければならない。アナウンサーだったかリポーターだったかの話では,まるで奴隷的な生活をしていると話しておりました。そうすると,このお姉さんの場合も,やはり幻想+不幸 (そのお姉さんも何か一つの不幸があって教団という運動体に入ったのでしょう)=奴隷的生活,こういうふうに単純化して言えば言える部分があろうかと思うのです。

霊感商法の現象面をとらえますと,宗教者の99%以上の人が「ひどい」と言うでしょう。そして自分達とは無縁のこととして了解してしまうでしょう。もちろん私は「目糞鼻糞」と相対化し,結果として霊感商法やその背後の教団を弁護してしまうつもりは全くありません。しかしこういうことを表面的でなくて,反省的に考えることを通して,問題の深さと広さを確認するという態度こそが,本当に「批判」の名に値すると言えましょう。ここでは二点だけ申しますと,一つは「分業」の問題があります。もう一つは「幻想」の問題です。 

先ず「分業」の問題なのですが,日本の社会を全体としてとらえますと,その中の何十万かの人間がいわば宗教的な活動に専従的に携わっている。しかし,宗教活動そのものは物質的生産とはちがうわけですから,なんらかの意味で宗教活動を他の諸領域から分業的に認知していただいて,宗教サーヴィスの提供と「交換」にお金が入っていかなければなりません。これを買わなければ息子さんが癌になりますよというような,脅迫まがいはけしからんと言われるかもしれませんが,社会を全体としてとらえますと,宗教活動に従事する何十万かの人たちの生活は,高名な宗教者から先ほどのお姉さんまで,爾余の諸領域からのお金の流入によって支えられているわけです。確かにこの流入の形式には「おさい銭」や「献金」や「お布施」という旧来の形式もあれば,冠婚葬祭産業や心身健康法産業やの下請けと化して宗教サーヴィス商品を販売するという形式もありましょうし,宗教的ペテンや脅迫による金のまき上げという形式もある。しかし少し考えるとこの種の宗教的ペテンは,宗教サーヴィスとお金とが「交換」されるという分業体制が支配的だからこそできるものなのです。もしあのおばあさんが宗教専従者集団によりかからずに,みずからの世界観的欲求をみずからの世界観的活動を通して充足するという生活をしておれば,ペテンなど入る余地はないのです。宗教の克服というものを人類史的に見ると,民衆自身が世界観的自己活動を自由に展開することを通じて,宗教専従者集団を無用のものとする。少くとも歴史博物館的なものにするというプロセスが,その根幹をなすと言えるでしょう。

ところが宗教専従者集団は一旦分業的に成立しますと,自分達の存在条件を再生産し,のみならず拡大再生産しようとするのは言うまでもないことです。各宗教集団は企業間競争と同じで「教勢」を競い合います。さすがに「年商」などと公言はいたしませんが「信徒数」を競い合うわけです。しかも全体としての宗教専従者達は,自分達の宗教サーヴィスに対しお金が「交換」的に流入してくるという分業システムの維持という点では利害が一致している。宗教専従者集団が自分達を無用にするプロセスを促すようなイニシャチブを自ら発揮するということは考えられないわけです。

こういう言い方をすると下司のかんぐりのように見られるかも知れませんが,教団経営の実態は我々のように外部から,経典や聖書だけを見ている人間には想像もできない「生ぐさい」ものであるようです。そういう社会関係的に見られた宗教という「現実」もまた「本当の宗教」なのです。

早い話,大都市部ではお墓問題で困っていると言われる。それは土地政策の問題かもしれませんが,もし宗教者で真面目な人が,「立派なお墓があろうとたかろうと,お墓なんかなくても,あるいは戒名でたくさんお金を出さなくても,そういうのは「真の」宗教的救済とはまったく関係がないのだ,あるいは葬式するかどうかすら,「本当の」宗教とは関係がないのだ」と,こういうように言うかといえば,言えないわけです。そういう社会システムになっているわけですから。宗教専従者だって食っていかなければならない。それは下司のやっかみというのではなくて,現実にわれわれが生きているあるがままの社会関係というものはそういうものなんですよ。宗教というものを,単なる観念や信念や個人の宗教体験のレベルでしか見ない見方は「真の」宗教を偽るものといえましょう。宗教といえども,一つの分業の中で一定の社会体制を再生産するメカニズムの中で食っていかねばならない以上そういう重い問題を抱えているのです。

だから,なにか老後のおばあさんの生活を不可能にするような、そういうしこたまな,あるいはラジカルな,根本主義的な宗教的収奪,こういうことは許せないが,マイホーム主義の許容範囲での宗教的収奪は許せる,という程度では,議論が原理的なところまで到達していないのです。「マイホーム生活は大切で費用もかかるでしょうが,まだちょっと余裕があるでしょう,その分は私の方へよこしてくださいよ」と。テレビのコマーシャルには間接的脅迫というのがありますね。こういう商品を持つのが「ナウイ」とか,それを持たない人間は「ダサイ」とか「イモッポイ」とか「おじんくさい」とか「ネクラ」だと言外で脅迫するのです。つまり社会通念に「反する」脅迫でなくても,社会通念「による」脅迫もまた,一つの脅迫に相違ないのです。なぜわれわれはお墓や戒名や位牌,仏壇を持たたければならないのか。「お布施」をあげなければならないのか。「真の」宗教を考える人たちはこういう問題にもっとぶつかっていただきたい。もし「ファンダメンタルな宗教はファンダメンタルにおばあさんの生活そのものを不可能にするまで収奪してしまう,しかし私は,ファソダメンタルな宗教ではなくて,世俗宗教でマイホーム安泰主義宗教ですから多宝塔など買えとは申しません。しかし余分な金があるでしょう,その分は墓地を買い,お布施や戒名に支出しなさいよ」,こういうのであれば,原理的な批判になっていない、こう思うのです。

第二の「幻想」の問題に入ります。先ず「幻想」は一面では現実の倒錯視を含む想像であるが,他面では幻想主体の願望の実現であるという両面を持っております。いわば認識面と心理機制面の二面を持つのです。だから,宗教批判者が宗教の倒錯視面のみを指摘して宗教批判が完了したと思い違いをしてはならないのと同様,宗教的心理学者が,宗教の中に願望実現の心理機制が働いているとして,倒錯視面の批判を控えるのも,結局のところ今日の宗教にとってためにならない,追随主義に終るのです。心理的に「安心」させてもらえるのなら何を信じてもよい,というのは民衆の宗教的プラグマティズムでしようが,やはりそこに含まれている倒錯面,幻想面が常に厳しい批判にさらされていないと,民衆の世界観的自立もないし,先程の霊感商法のおばあさんやお姉さんの悲劇も避けられないわけです。今日は「心の実体佳」という問題に限定してこの倒錯性を追ってみましょう。

僕のように哲学史をずっとやっていて常に問題になるのは,「心の実体性」の問題に対する批判は哲学史上かなり以前に決着がついているのに,宗教者の日常意識レベルでは今日なお,「心の実体性」の信仰が基底部を支えているという,哲学と宗教とのある種の深刻な乖離の問題なのです。「心の実体性」、つまり「心」というものが我々の脳活動を含む,身体活動から独立にそれ自身の存立をもつという主張は,例えばドイツの哲学者カント(1724-1804)によりかなり致命的に批判されているわけです。僕が見聞する限り,今日の哲学者たちの中には,もはやそういう「心の実体性」というものを積極的に主張するような人はまずいないと言ってよいと思います。そういうので権威づける必要はまったくありませんがね。にもかかわらず,通常の生活者としての世界意識、世界表象というものを考えますと、何か当然のごとく、死後の世界を持ち、先祖や水子を供養し、神に会ったという教祖様の教えをありがたく考える。盆と正月には山の上から先祖の霊を迎えていっしょにうまい物を食って夕方にはさよならバイバイと見送る。こういうのが当然のように考えられているわけです。

こういう哲学と宗教の間の深刻な乖離というものをわれわれはどう考えたらいいのか。例えば,私は神を見た,私は超常体験をした,私は超能力をもった,死後の世界を見た,死者の霊魂に会った,こういう人たちに聞きたいのは,「あなたたちはそれを身体・脳なしにやったのですか」と。生き神様でもなんでも「超常」体験をしますね。私はそういう体験そのものを否定するわけではなくて,そういう体験は身体・脳なしにやったのですか,身体・脳なしに神に会ったとか,身体・脳なしに死者の霊魂に会ったとか,身体・脳なしにオカルト的な奇蹟をやった,そういう経験をわれわれ人類はまったくやっておりませんね。カントが言いたいのはそこなのです。カントは初期からずっといわゆる「心の実体性」や「唯心論」への批判的言及を行っており,今日日本でも流行している視霊者スエーデンボルグの論敵だったのですが,例えば次のように言っています。「身体との結合なしには生におけるどのような経験も行なわれない。だからこの経験は,我々が身体なしに何でありうるかを証明できない。なぜなら経験は身体と共に生じたからである。もし人間が身体から離脱することができれば,この時行なわれる経験は,人間が身体なしに何でありうるかを証明できるだろう。しかしこのような経験は不可能であるから,心が身体から離れて,どのようなものであるかは,この経験がない以上,説明できない」(『形而上学講義』)。つまりわれわれが経験するあらゆる経験は身体との不可分の結びつきを伴ってしかできないわけです。だから,死後の霊界があるとか,死者が死後も影響を及ぼすとか,は認識としては「仮象」,つまり一種の倒錯視にすぎないとカントは考えているのです。

もちろんそこで体験される「神」や「霊界」や「死者霊」が,つまり「幻想」がそれを体験している人にとって「心理的実在性」を有しており,そういう「心理的存在」としてそれを「幻想」している人を脅かしたり,慰めたりしていることは疑う余地のないことです。しかもこれらの「幻想」は大なり小なり社会的に共有されているから「社会−心理的実在」と言ってもいいでしょう。けれどもこれらの「実在性」は,現に身体的に生きている我々人間の「心的過程」の中の「実在性」にすぎないのであって,「死後の」「実在性」など一分子も含んでいないわけです。つまり「神」も「霊」も,我々現に生きている人間の「心的過程」から独立した「実在性」を主張することは,哲学史的にはもはや過去の遺物,すでに克服された立場だと言えるのです。だから第一テーゼの通り,宗教が自己を今日的に再定義しようとする場合には,この問題をクリアーするような形での展開が現代的地平として要求されているのじゃないか,こう思うのです。

しかし先のおばあさんの場合に限らず,宗教意識の現実形態というものは,そういう現代的地平とは,おおよそ無縁の所にあることを誤認してはならない。「真の」宗教を探求する知的宗教者のみを追うだけでは,現実の宗教形態を見失ってしまうのです。一部に「幻想」論的宗教批判はもう古いと言う人がおりますが,私に言わせるとそれはとんでもない誤りであって,そういう主張は宗教の現実形態に対する無関心を物語るにすぎないと言えましよう。

マルクス(1818-1883)の宗教批判というと,皆さんご存じの「宗教は民衆の阿片である」という言葉が思い浮びますが,ここに言う「アヘン」とは「幻想的幸福」追求という意味です。「アヘン」という言葉はマルクスが最初に言ったわけではなくて,当時のへ一ゲルの弟子たちが言った言葉ですが (例えぱ,M・ヘス『一にして全なる自由』1843),あるいはフランスの唯物論者までさかのぼると思われる言葉なのですが,マルクスが宗教間題というものを問題にした基本視点,先ほどの言い方で言うと,宗教再定義,再限定のマルクス的形態というのはまさに民衆の事柄としての宗教ということなのですね。今日先程来ここでお話しになった先生方のような宗教エリートや宗教的思想家の問題として宗教を先ずは問題にしているのではなく,日常生活者が幻想酌幸福追求という姿勢をとる。このことを克服することなしには人間の解放はありえない,こういうことでしょう。そういう民衆の事柄としての宗教の批判が,マルクスの宗教批判の一番大きな特徴だと思うのです。

それでは民衆はどうして幻想的幸福追求をするのか。それはマルクスの見方からすれぼ,「真の現実」というものを失っているのだ,と。真の現実を失っているが故にこそ、幻想的な人間本質の実現というものを求めるのだ、こういうふうにいうわけです。「宗教とは自分自身をまだ獲得していない人間か,それとも自分自身を既に失ってしまった人間の,自已意識であり自已感情である」(『へーゲル法哲学批判序説』)。そのあたりのマルクスの宗教批判の今日的意味というのは,皆さんにもずいぶん耳を傾けていただけるような中身を含んでいると思います。宗教批判は,民衆の「幻想的幸福」の中に倒錯的に投影されている「真の現実」をそれとして自覚化する方向に,民衆の世界観的自立を促すものでなければなりません。

時間がありませんので,多少前へ前へ進んでしまいますが,今日では「信教の自由」の尊重ということを建前にする以上,宗教批判をすることを,どうしても躊躇してしまう。しかしこれはやはりおかしいのじゃないでしょうか。カントが言うように,「現代は批判の時代である」。つまり,「私はこれを確信している」というだけではだめなのです。「私の確信の根拠はここにあります」と,お互いに他者に対しても根拠を要求し,自分の方もその確信の根拠を提示する。少なくともそういうことを要求しあえるような,そういう条件があってはじめて「信教の自由」というものも,権力からの介入を回避して,本当に一つの内実をもったものとして生きることができるのではないでしょうか。

そういう点でいえば,宗教者が宗教批判をすることが少なすぎる。宗教批判者ももちろん少なすぎる。マルクス主義者も最近ずいぶん宗教批判をしませんね。これは問題ありと僕は思っているのですが,しかし宗教者もまた,もっともっと宗教自身を批判するということをとおしてはじめて,無信仰の自由も含む「信教の自由」というものは,今日的に展開できるのではないでしょうか。以上が第二のテーゼ,つまり「宗教者は,真の宗教とは何かとい

うことを問うことをとおして真の宗教を見失う,あるいは見忘れる」という問題です。

 

第三テーゼ 「宗教批判者は真の宗教を求めるのではな<、宗教の真理を求める」

 

第三のテーゼに移りますが,第三のテーゼは,「宗教批判者は真の宗教を求めるのではなくて,宗教の真理を求める」,こういうことです。繰り返しますと,私の今日の発言の第三点は,「宗教批判者は真の宗教を求めるのではなく,宗教の真理を求める」ということなのです。

宗教批判の歴史というものを,「いや,オカルト・ブームは困りものだ」とか「あんなの迷信じゃないか」,という程度のものと考えてもらっては困るのです。それどころかある意味で哲学の歴史というのは,宗教批判の歴史ですらあるのです。哲学は「本質的に」宗教を批判してきたわけです,哲学史を読まれたらわかるように。「本質的に」というのは,つまり哲学というのは宗教を批判してもしなくてもいいというのではなく,宗教をどうしても批判せざるをえないほど宗教に対して対立すると同時に,世界観としての共通性をもっている,こういうことです。

現在,哲学が宗教を余り批判しませんね。ということは,哲学が世界観としての自己を見失っているからです。大学の哲学の先生に会うと,「私はだれだれの,何々という文献について最新のテクストクリティークをした」,というのが話題の中心になってしまうことがよくある。僕のように大学をやめて宗教を批判する,政治も分析しなければならない,こんなことをやっていたら哲学の堕落だ,こういう話になってしまうのです。しかし本当にそうでしょうか。やはり哲学というものも,宗教の批判をとおして世界観としての内実を展開しなければならない。今日の宗教ブームで一番僕が当惑するのは,「科学が限界にきた。生産力が限界にきた。それ,宗教だ」と。どうして哲学が出てこないのでしょうか。先ほど来の先生方の話を聞いていても,例えば「創造的直観」なら「創造的直観」というモチーフがどうして宗教の見直しという形で立論されていって,哲学上の再展開という関心でもって事柄を見ることがないのでしょうか。こういうことは私のような哲学畑の人間には大変衝撃的なのですが,とりもなおさず,哲学が世界観としての生きた力を失っているということでしょう。今日の宗教ブームを理解する上でこれは大きいでしょう。これは大きいでしょうね。そういう思いをこめて,第三のテーゼ,つまり「宗教批判者は真の宗教とは何かというのを問うのではなくて,宗教の真理を問う」を提出したい。

へーゲルは宗教を非常に高く評価いたします。しかし,「真の」宗教というものは彼の場合,結局実現しないのですね。宗教の内実を形成しているものは,宗教という形式,つまり表象,記憶とか想像,そういう形式ではとらえきれない。宗教的形式では,宗教がはらんでいる「真の」内実をとらえきれない。だから「宗教の真理」は哲学なのです,へーゲルの場合。皆さん異論はあるでしょうが,へーゲルはそうみたわけです。つまり彼の独特の言い方を借りれば,彼は「宗教」を「哲学」へと「止揚(アウフヘーベン)」しようとするのです。

フォイエルバッハというへーゲルの弟子は,「神学の本質は人間学である」あるいは「宗教の真理はヒューマニズムである」,こういうわけです。私が十字架にかかった血まみれのイエスを見て,ああ,人間というのは罪深い,この人は人間のこの罪を一身に背負ったのだ,こういう感情におそわれる時に,フォイエルバッハからみれぼ,それはまさにヒューマニズムの自已確認なのであって,それを宗教はいわば想像力の形式で表現している。しかし,人間を人間として立てる,神や神人という幻想の力を借りず,人間自身の本質の展開としてこれを自覚化しなげればならない。だから「神学の本質は人間学」であり,「宗教の真理はヒューマニズム」なのです。つまり彼は「宗教」を「ヒューマニズム」へと「止揚」しようと努力したのです。

あるいはマルクスでいえば,「宗教の真理」は「共産主義」ですね。「宗教の真理」が「共産主義」なんていうと唐突に聞こえるかもしれませんが,少し宗教の歴史を見られたらわかるとおりです。現実に孤独感にさいなまれている人々を宗教は「幻想的共同杜会」に引き入れます。それによって宗教が孤独な信徒を心理的に支えていることも,まぎれもない事実です。これとは別に宗教には,修道院やサンガのような宗教専従者達の共産主義もあります。南米のカトリック神父達のいわゆる「解放の神学」関係のものを読むと,「真の宗教」として「共産主義」受容へと進むベクトルと,「宗教の真理」として「共産主義」を自覚化せざるをえないベクトルとが交叉して,極めて緊張感を感じさせます。マルクスが共産主義を強調するコソテクストは色々ありますが,その柱の一つは,次のようなものです。つまり,近代以降我々人間はますます商品関係に入り込んでいきます。相互に孤立した人間が「物」と「金」を介してしか社会的関係をとりむすばなくなる。お金というのは一つの「社会的力」ですから,お金さえあれば,人と人との人格的交わりもなしで済む。女性の性的サーヴィスもお金で買うと「あとぐされがない」。なぜならそこでは人格は単たる貨幣や商品の所有主体であるという以外の一切の内実を喪失しているからなのです。しかし人間は本来的に共同的存在ですから,こういう相互孤立的分業関係を「幻想的共同社会」としての「国」とか「教団」というもので補うわけです。だから国家や宗教の「真理」は「共産主義」なのであり,国家も宗教も「共産主義」によって「止揚」されなければならない,こういうのです。

哲学史的枠組みですと多少はがゆいかもしれませんから,他の例をとりましょうか。先ほど来,例えば「ホリスティックな方法」が問題になっているのだ,と強調されました。しかしホリスティックな方法が問題になっているというのは,一体宗教の事柄なのでしょうか。それとも,科学がホリスティックな方法の再定義をしようとしているのでしょうか。科学史家や哲学者が「宗教の真理」として「ホリスティック」なものの見方に注目しつつも,非宗教的形式でそれを展開しはじめているのだとしたら宗教はどうなるのでしょうか。

あるいは単なる身体医学ではなくて,心身医学が今日,強調されています。けれども心身医学というのは,従来のいわばハンドメードな,手工業的に形成された心身健康法,心身鍛錬術としての宗教の伝統を,科学的術語と技術体系に組みかえることによって「宗教の真理」を非宗教的形式で今日的に再組織しよう,こういう運動がなされているのでしょうか。それとも,宗教の枠組みの中でのみそれが展開可能だとみているのでしょうか。科学者や技術者,医者たちは,そういういわば従来のハンドメードな,あるいは悪くいえば,経験主義的で手工業的なものを,いわば概念的な形式に,科学的な方法に裏付けられた方法的反省をもってした技術体系に改作しようとしますね,当然。その時に,旧来の心身健康法,心身鍛錬術としての宗教の側面はどうなるのでしょうか。そういう形で,「宗教の真理」は自立化していきますね。

あるいは,先ほど来の話に一つ欠けているというか,エコロジー的な連関,自然との一体感というものも,従来宗教の専売特許であった。特に神秘主義や密教の。そういう幻想的形式の中で宗教は従来,われわれ人間というものがなによりもエコロジー的連関の中で生きている存在であるということを自覚させてくれた。しかし公害やエネルギー危機をきっかけにエコロジー団体が運動を開姶し,生態学への関心が高まり,「宗教の真理」がエコロジー的連関の自覚化とエコロジー運動という非宗教的な形で再展開されていった時に,宗教はどうなっていくのでしょうか。

あるいは「畏敬の体鹸」にしても,「畏敬の体験」そのものが宗教性ではなくて,「畏敬の体験」の宗教的意味づけが宗教なのだ,という考え方は決して成立しなくはないのです。あるいは「心の平静」というものも強調されましたね。「心の平静」そのものではなくて,いわば「心の平静」を宗教的に意味づけていくのが宗教だと考えることができる。しかし,非宗教的に意味づけていこうじゃないか。哲学をもっと世界観として展開することをとおして。哲学はある意味で「心の平静(アタラクシア)」を求める賢者の道であったわけでして,そういう哲学の伝統にたちかえることをとおして,神や死後の霊界というものを前提にすることなしに力強く死を迎える(もっとも死が恐ろしければ,恐ろしいと言い,取り乱せばいいのであって,「力強く」死を迎えるために神や死後の世界をあれこれ求めることこそ,アタラクシアの欠如なのですが)とか,そういうものが自己了解を遂げられていく過程が進んだとして,宗教はどうなっていくのでしょうか。こういう風に,「宗教の真理」を非宗教的に展開する問題として宗教批判というものは位置づけられなければならないと思うのです。

今日の宗教はいろいろな領域から挑戦を受けています。一つは何と言っても科学技術からの挑戦があります。もう一つは商品資本関係からの挑戦,つまり宗教そのものが商品資本関係に包摂されていくプロセスが急速に進んでおります。それから外なる無神論,無信仰より以上に,宗教の内なる無神論,無信仰からの挑戦が,深刻化して来ております。それから非常に大事なのは,国家権力からの挑戦があります。つまり天皇制という国家と宗教の独特の結合体の問題があります。最後に,歴史からの挑戦というのがあります。戦後40,「経済大国」になって「政治大国」,「軍事大国」にならざるをえない。こういう方向が歴史的に展開していきます。宗教が今日直面しているようなこういう様々な挑戦に対して,宗教はどのようにして応えていくのか。深刻な問題がたくさんあると思うのです。

ただその際,僕が今日の限定された枠組みの中で申し上げたいのは,宗教者自身がもっと宗教批判に取り組み,宗教批判を方法として確立していただきたい。無神論者の戦前の宗教批判のし方にはずいぶん欠陥があったように聞きます。ソビエトなどでもずいぶん自己批判がなされているように思います。そういう意味で,宗教批判というものを過去の,既に出来上った特定のイメージで考えるのではなく,自分たち自身の足元から方法的に宗教批判というものを位置づけて,今日の宗教が直面する問題に立ち向かっていかなければならたいのではないかというのが私の結論であります。

 

参考文献

山本晴義編『現代日本の宗教』1985年、新泉杜

大阪哲学学校編『天皇制を哲学する』1987年、三一書房