今、生き方を考える―自立の哲学とは何か
田畑 稔(季報『唯物論研究』編集長)
1990年4月25日東洋大学朝霞学舎で東洋大学学術文化研究会主催の新入生歓迎講演会での講演があった。この講演は同研究会により『講演録 今、生き方を考える―自立の哲学とは何か』(1991年11月17日)としてまとめられた。以下はこのうちの第3章、第4章、第5章、第6章である。
【1】 「自立」の哲学・文化の未形成 (略)
【2】 生活現場に向かう「哲学」 (略)
【3】イエスの闘い
さて、とっぴなようですが、イエスから話をしてみましょう。皆さん、イエスという男をどう見ておられるのでしょうか。私は、信仰者ではありませんので、もちろん人間として、イエスをどう見るのか、考えます。もちろん、非常に魅力的な人ですね。我々の今日のテーマである「自立」という問題からして言えば、どうなのでしょうか。考えてみましょう。
まず、その場合に非常に困難があります。つまり歴史的人物としてのイエスですね。それは信仰対象として非常に脚色された、後世の人間が作ったイエス像とは、違う訳ですね。しかし違うとは言っても、歴史的人物としてのイエスは、我々に知る余地がない訳です。どうしたら知れるのか。『福音書』と言うのが残っている訳ですね。(岩波文庫の『福音書』と言うのを是非買ってみて下さい。) その中では『マルコ伝』『マタイ伝』という順序になっています。あと他に、『ルカ伝』と『ヨハネ伝』と言うのがある訳ですけど、これは、どう言うことかと言いますと、イエスの言行を、マルコが伝えている、マタイが伝えている、と言うもので、これらを『福音書』と言いますが、これは、信仰者が、イエスの弟子又はその弟子が作ったものだから、歴史的人物としてのイエスが、どんな男だったのか、私のように考える素材にはならないんじゃないか、と言うことなんですが…。これは実は、いろいろ聖書学者達の研究がありましてですね、マルコによる福音、『マルコ伝』と言うのが、一番最初に成立したもので、これは比較的に歴史的人物としてのイエスに近いイエス像を我々に伝えてくれています。『マタイ伝』になりますと、「マリア様はバージンのまま子どもを生んだ」とか「イエスは代々さかのぼって行くと旧約聖書に出てくる神の栄光を担う一族の末裔にあたるんだ」とか、そう言う幻想的な、信者が自分の幻想でもってイエスを美しく描いていこうという形をとっていくようになりますが、マルコによる福音書になりますと、比較的そう言うのはありませんね。「マリアさんがバージンのままで生んで、実は神の子なんだ」とか、そんなことは全然書かれていません。むしろ「マリアさんは、イエスが気が狂ったのではないかと思って、あんた家に帰ろう」と呼びにきたりしています。そう言うのとか比較的我々の生活に近いイエスが出てきます。詳しいことは、聖書学上のいろんな議論は、ここではもうはしょりますが…。
一応、そのマルコによる福音書(もし、興味のある人は、『マルコ伝』と『マタイ伝』を読み比べてみて下さい。すると良く分かります。信仰者の作ったイエス像が『マタイ伝』です。最近よく、聖書をプレゼントされたりしますよね。すると大体『マタイ伝』から勉強させられます。この岩波文庫は、自分達で金を出して買うのですから、ちゃんと成立年代順に読むことができます。『マルコ伝』というのが一番古いんですが、それによりますと、大体イエスの生涯というのは、資料のようになっています。この地図を見ますと、これは地中海ですね。エルサレムというのが中心にあります。ここにユダヤ人の神殿があります。イエスが生まれたのは、ガリラヤのナザレという所ですが、大工の息子であり、イエス自身も大工です。イエスというのは、インテリとかハイソサエティではありません。むしろ大工で、腕が太く、指がゴツゴツした、相当バイタリティに富んだ激しい気性の男であったと思われます。イエスの弟子達も、ほとんど大工とか漁師とかでした。実は、イエスが「ヨハネ運動」に参加するんです。ヨハネというのは、イエスの先生にあたる訳ですけれども、何かこう思うところがあったんでしょうか、この死海にそそぐヨルダン川というのがありますね、この流域で、ヨハネは、「神の国は近いぞ。最後の審判が下るぞ。我々はみんな自已批判しよう。」という運動を始める訳です。みんな川に集めて、洗礼をする。ユダヤ教の信仰のなかで重要なものに、終末観というのがあります。終末観というのは、「世の中は神と契約して繁栄しているにもかかわらず、神との契約を忘れてしまって、人間は享楽に耽っている。すると、神の復讐的正義がやってくる。ドーンとやってくる。」というものです。この“終末観"と“メシア主義"が、裏表であります。メシア、すなわち救世主です。こういう宗教観念があるんです。「世界の終わりが近い。神の怒りが爆発して。我々の神を恐れなくなったユダヤの民は死ぬ思いをして苦しまなければならないだろう。そういう時代が近づいたのだ。今こそ心を改め、洗礼を受けて、この終末にそなえよう。自已批判しよう。」と言うような運動をしていた訳です。当時の僧侶階級というのはその上層は地主出身です。ローマ帝国の支配下で、ローマ帝国というのは、間接続治をしていた訳ですから、大地主な訳です。貴族とか、王族とか、こういうもの達が、エルサレム神殿を造って、いろいろ税金を取ったりしていた。“終末観"というのは、当時のエルサレムを中心としていた僧侶階級の腐敗、堕落に対する抗議という意味もありましてね。洗礼運動をやっていた訳です。
そこへ、イエスが弟子入りする訳です。ところが、ヨハネ運動は、大弾圧を受け、ヨハネは処刑されちゃうんですね。イエスは、田舎へ逃げて帰ります。ガリラヤヘ逃げ帰る訳です。そして、またガリラヤで、そういう運動を復活させます。イエスの運動の特徴は、今言ったそういう「終末が近いぞ。悔い改めよ。」という運動と同時に、“奇跡"ですね。目が見えない人を見えるようにしたり、いろいろ心の病をもっている人を治す。今日我々が呼んでいる、心霊治療ですね。当時は、医学、近代医学とかありませんから、心霊治療というのは当時の医学と考えたらいいですね。そういう奇跡でもって、イエスは、民衆のジカベタの個別的不幸に直面していく訳です。その点は「哲学者」と違うところですね。ソクラテスの場合でも、「哲学者」というのは普通、個別的な不幸を解決しようなんて言うことは、ようしないんですね。立派な人間を作ろうというのはやります。しかし、ジカベタの不幸に直面しようというのは、ソクラテスよりイエスのほうがはるかにすばらしい。ところがそれは、奇跡でもって、つまり心霊治療でもって、解決していく。
ところが、そのイエス運動というのは、けっこう有名になって行きます。有名になって行きますと、又、エルサレムから「これは異端じゃないか」と、呼び出しを食らう訳ですね。それでイエスは、覚悟を決めてエルサレムに乗り込みます。乗り込むプロセスで、弟子達に、「お前ら。私はもう死ぬ覚悟をしているんだ。」こう言いますね。エルサレム神殿に最初に入って行ったときに、イエスは、ヨハネによる福音書や後世に伝えられているイエスなんかは、愛の体現者のように描かれていますが、全然そうじゃありませんね。 ゲバルトですね。エルサレム神殿の前にいろいろ店屋が並んでおりますよね。子どもが生まれたとか、何かの祝いだとかでお供えさせたり、羊をお供えさせたり、宗教権力者達は、税金みたいな形で、取るだけではなくて、物品を供えさせる訳です。両替屋とか、いっぱい並んでいる訳です。つまり、商業と結びついている訳です。異端審問で呼び出されて乗り込んだときに、彼は、何とゲバルトでですね、その宗教の腐敗・堕落をですね、そういった店屋を、バァーとやっちゃう訳です(笑)。非常に気性の激しい人だったようです。それでいろいろ異端審問にあって、結局「自分は神の子だ!」とこう言ってしまう訳です。聖書学者達に訊問されましてですね。言ってしまったが為に、これはもう明らかに「異端だ!」ということで、処刑されてしまう訳です。イエスの先生のヨハネも、結局異端で処刑される。イエスも処刑される。十字架にかかって死ぬ。これがイエスの生涯であり、イエスという男は、そういう人生を送った訳です。さあ、それをその「自立」という側面から見てみましょう。
まず、イエスは、自己主張するために、つまり腐敗・堕落した宗教権力に対して、闘うために、どういう武器を使ったか。これは、ユダヤ教という伝統的に自分が受け入れてきたイデオロギーですね。その中に、「終末観があり、メシアがあらわれて、この悔い改めた者を救うんだ」、こう言う伝統的にユダヤ人の中に与えられたイデオロギー空間を利用する訳です。イエス自身の独自の思想という訳ではないんですね。そういうイデオロギー的な空間、旧約聖書のイデオロギー的な空間そのものを批判するということは、全然無い訳です。これが第1点目です。「自立」の武器は、伝統的に受け入れてきたメシア主義というイデオロギー的空間、これを武器にした。これを武器にして「自立」しようとした。
第2点は、ただ単に「神による復讐的正義の実現」で宗教権力とぶつかっただけではなく(ぶつかって処刑される訳ですけど)、民衆レベルの個別的不幸に直面しようとした。これがイエスの非常に重要な面ですが、病気とか汚れた霊(今日的に言えば精神病ということでしょうか)に対する治療をやった。だから、マルコによる福音書によれば、奇跡というのは、例えば、母であるマリアがバージンのまま生んだというような奇跡は全然ありません。そうではなくて、一種の心霊治療ですね。もちろんそれは、誇張もあるでしょう。しかし、個別的不幸の実践的解決を目指した、というのは、イエスの宗教の民衆的性格をあらわしているのです。(今でもそうです。今でもプロテスタントやカトリックの教団は、非常に洗練されていますね。だから原理研などに対して、対抗しますね。しかし、民衆の個別的不幸に対して、そういった洗練された宗教は、果たして直面するような宗教的エネルギーを持っているのかどうか。こう言う面で言いますと、どうも洗練されすぎちゃって、そういう問題については、例えば「病院に行けばいいじゃないか」というような話しになっていく訳ですが…。)やはり、宗教エネルギーの民衆的次元というものをイエスは持っていたのです。
ところが、個別的不幸というものは、皆さんの回りにも、皆さん自身にもあるでしょう。それを共に苦しみ、共に解決しようとすると、自分自身の人生を賭けなければならないという位の非常に、個別性の迷路に入り込んでいく性格を持っていますよね。「バーンとこれで解決した。」という風には行かないんですね。ところが、イエスの場合は、目が見えない人を見えるようにするとか、そういう一瞬の瞬間的奇跡でもって、個別的不幸を解決しようとしたのです。しかし本当に個別的不幸というのは、個別性の非常に入り組んだ、複雑に絡み合った、だから、それを共同に解きほぐして行くには、私の人生を、ある意味で賭けなければならない。そういう複雑な様相を持っていると思うんですね。それを、手を触れたり言葉を発しただけの一瞬の奇跡、すなわち、個別的不幸との瞬時的接触で解決を目指す。と言うことは、その奇跡力を誇張していかざるを得なくなってくる訳です。ただ、当時は、近代科学がない訳ですから、心霊治療というのが、一つの医学である訳ですから、そう単純に、「全てがはったりだ」ということは出来ません。むしろ、心霊治療者としての有能性があったんでしょう。しかし、にもかかわらず、個別的不幸を瞬時的に解決しようという志向は、ある意味で絶対者としての神への自已同質化=自分自身を神の子として幻想していく。そういう幻想の肥大化を生んで行く訳です。ですから、「自立」という場合には、「幻想からの自立」ということが、イエスの場合は非常に欠けている。絶対者としての神と、自分自身を幻想的に融合させて行くという、イエスの意識構造から考えるとですね信者とか弟子達との(12人の弟子はみんな民衆なんですけど、自分は、神と人間との仲介者と考える訳ですから)横の関係を形成できなかった。
先程言いました「対話的関係」(イエスは神との対話はいたしますが、「対話的」というのは、相互に自立した主体があって、相互に対話をすることな訳ですから。)がない訳です。イエスは、弟子や信者とは、対話しない訳です。ただイエスは信者を救う訳です。信者はイエスを信じます。逆に言うとイエスは、神の子として自分を縦軸で位置付ける。そういう言わば横の関係、「自立した人格」としての横の関係を信者との間でも、それから弟子達との間でも、形成できなかった。これが、大きな点です。だから結局ですね、イエスはエルサレムから呼び出されたときに乗り込んで行く訳ですが、弟子達が全員裏切ってしまう。ユダが裏切りますね。ユダは裏切りますが、ユダが一番まともです。何故かと言いますと、先程の「自立」の問題で言うと、自立した尺度にもとづいて裏切ったのです。「裏切った」というのは、そういうイエスの狂心をとがめたんです。「私は、あなたの玉砕路線にはついて行かない。」そういう意味では、自分の尺度にもとづいて、イエスから離反していった唯一の人間は、ユダです。その他の弟子達は裏切ろうとはしなかったんですが、イエスが十字架にかれられたとたんに、逃げて行く訳です。「あんた、あのイエスさんと一緒に、この前伝道していた人じゃないですか。」「いえいえ、めっそうもありません。私はそんな人間じゃありません。」という具合に逃げて行くのですね。こう言うのは、もう全く「自立なき裏切り」ですね。ですから、12人の弟子達のうちで、一番立派なのはユダです。
『最後の誘惑』と言う映画を見ましたか。あそこでもやっぱりユダが、一番いい役回りをしてますなあ。あれは当たり前のことなんです。イエスはだから、12人全員に裏切られる訳です。裏切られるということは、そういう人間関係を、相互自立的な人間関係を形成できなかった訳です。耳を傾けない。神に対して上下関係を形成してしまった為に、自分は、神と人間の仲介者だから、人間との間に上下関係しか形成できなかった。
ところが、イエスは弟子に裏切られただけでなく、神にも裏切られた。イエスは十字架にかけられた時(もう最後の時ですね。十字架というのは、ローマの処刑法です。これは、釘を打って、そのまま置いとく訳で、みんな死んでしまうのですね。まあ非常にしんどい訳です。『最後の誘惑』と言う映画では、この死ぬ間際に、イエスが夢を見るシーンがあります。ギリシャの哲学者がシナリオを書いたおもしろい映画なのですがその話はおいて置きますから、ビデオを借りて見て下さい。その前に『マルコ伝』を読んで下さいよ(笑)。イエスは「神よ、何故あんたは私を裏切ったのか。見捨てるのか。」と叫びます。自分は神の子と思っている訳でしょ。「神の子なら、処刑されても、奇跡でも起こしてみろ」と言われて、悔しかったんでしょう。それでイエスは、死ぬ間際に、「どうして、神は私を裏切るのだろう。」と、正直に書いてますね。ここが、イエスの悲劇です。もちろん、そういうイエスを揶揄する人達、「ほら、そんなはったりでやっているから、そんなえらい目におうて、ざまあみろ」と言う意識は、人間の汚い、イエスの悲劇性を理解しない人間の軽薄な意識です。イエスが何故悲劇的に死んだかと言えば、宗教権力と妥協する事なく闘ったからです。そういう非妥協的な闘いに挑んだ、と言うところにイエスの悲劇性があるのです。「長いものには巻かれろ。」「はいすいません。」といった日本人の、権力の中心に向かって同質化を争うけれども権力に向かっては物が言えない。そういう人が、「イエスも馬鹿だなあ。そんなのやっても負けるに決まっているじゃないか。」と言ってもですね、そんなのは、人間の愚劣さを自己表現しているだけなんですね。悲劇というのは、負けることを覚悟して、権力と闘う。運命に立ち向かう。だから悲劇になる訳ですね。シェークスピアの悲劇なんかもそうですね。人間が勝ち目のない勝負に挑むから、悲劇になる訳でしょ。勝ち目のない勝負に対して、「すんません」と頭を下げてたら、悲劇にはならない訳です(笑)。
そういうイエスの悲劇性ということに対して、私たちは、理解しないといけませんね。それにもかかわらず、イエスはどうして自立できなかったのか。これは、今まで言った通り、「神の子」という絶対者として生きてしまった。(『資本論』なら『資本論』を何か、「絶対的なもの」にしてしまった。マルクス主義はそうじゃないですよ。マルクス主義は、本来そうじゃないですけれども、マルクス主義を宗教的に絶対化する傾向は、ままあることです。)そうしてしまいますと、もう、自立的な人間関係を形成していくことができなくなってしまう訳です。相互に自立的な人間関係を。結果として、全員から裏切られる。神にまで裏切られてしまう。そういう結果になってしまう訳ですね。そこに、イエスの自立の悲劇的結末があるのです。
もう一つ注意しておかなければならないのは、お母さんや故郷との関係ですね。イエスは、メシア運動をやる訳ですね。つまり、宗教権力に対して、反権力的な運動をする訳です。イエスはローマ帝国と政治的には闘'いませんでしたけれども、エルサレムの宗教権力と闘った。ところが、一般民衆にとっては「神の子」であっても、イエスのお母さん(大工のお母さんですね)にとっては、息子が恐れ多くもそんなことをやっているのは、大変ですよね。イエスはナザレで生まれて、マリアも弟もナザレにいる訳ですね。イエスは、マクダラとかカペナウムを拠点にイエス運動をやる訳です。すると、いろいろ噂が聞こえてくる訳です。そして、ナザレから弟2人を連れて、マリアはイエスに会いに行くのです。イエスが集会をしている所にあらわれて、「ちょっとあの男を呼び出して下さい。」と言うのですね。「私の息子は気が狂った。おそれ多くもこんな事をやり始めた。イエスよ、一緒にナザレに帰りましょう。」と言う訳ですね。するとイエスは何と答えたか。「私の母であり、兄弟であるのは、ここにいる皆さんだ。あそこにいるああいうのは、母でもなければ兄弟でもない。」こういう言い方をするんですね。そういう家族からの自立という問題があります。
逆に、イエスは相当に有名になっていまして、あちこちに伝道して歩く訳ですけど、ナザレにもいく訳です。家に帰る訳ですね。そこで、ナザレでの伝道に失敗するんですね。何故失敗したのか。イエスと、その弟子達が、伝道にやってくる訳でしょ。そして、集会を行う訳です。いつものように、病人を前に奇跡を起こそうとするのですが、奇跡が一向に効かないんですね。何故効かないのか。「ああ、あれはあのイエスじゃないか。鼻たれ小僧の。昔ケンカして俺が勝ったことあるぞ。」(笑)等と、集会に来ているみんなが言う訳です。つまり、日常性のなかでは効かないんですね。イエスの奇跡力というのは、非日常性の中にあって初めて効果があるのですね。(皆さんは余り経験ないでしょうけど、僕等の子どもの頃には、街にサーカスとかが来ましてね。高いところで、空中ブランコとかをやる訳です。そういうのを見て、体中が熱くなったのを、今でも良く覚えています。非日常的な世界があって初めて、何か奇跡的な効果を生むのですね。)まあ、心霊治療ですからね。今でもありますよね。催眠治療とか、いろいろと、近代医学の中にも。それの非常に素朴な形のものな訳でしょ。鼻たれ小僧の時代から知ってる、そういう人達ばかりがやってきて、取り囲まれている中では、効くはすがないのです。
我々の自立論の一つの大きな問題として、家族からの自立という問題が上げられますね。それを、ここで問われている訳です。家族や身内を相手では全然効かない。伝道も完全に失敗していく訳ですね。それから、お母さんが、「気が狂った。」という風に思う訳です。確かに、日常生活世界からして見れば、馬鹿げている訳です。そうでしょ(僕なんかにしてみても、こんな話をここでしていないで、おとなしく大学に通って、定年退職して、家建てて…をやっておれば済む訳です。それを、大学辞めて、あっちこっち行って話をして回ったり、借金抱えて、雑誌をやったりすることをしなくていい訳ですよね。家へ帰るとですね。まあ、一向に売れない本ばかり書いている訳ですよね。すると、「あんたの本を読んでると、すぐに眠れる。」とかですね。そういう風に言われる訳です(笑)。やっぱり、家族と、人間としての自立した関係を作って行くのは、大変難しい問題を孕んでいますよね。非常に率直に、問題が出て来ますので。だから『マルコ伝』というのは、イエスという男が、どんな生きざまをしたのかという事を、我々に知らせてくれます。美辞麗句ではなく、一人の男の生きざまが書かれている訳です。
では「イエスの闘い」を整理してみると、まず、@イエスは大工であり、人民的だった。そして、A宗教権力と非妥協的に闘った。B闘いの武器は、既成のイデオロギーを利用した。C個別的不幸に直面しようとする実践的性格を持っていた。Dしかし、「幻想」への接近と同質化の結果として、相互自立的関係を作ることができず、裏切られ、最終的に敗北する、このようになるのではないかと思います。
【4】シャカの自由
次に、シャカを考えてみましょう。まあ、シャカについて知る機会も余り無いと恩いますから、「食わず嫌い」にならずに聞いて下さい。シャカは、イエスに比べると、ずっとハイソサエティです。彼の階層は、「クシャトリア」[ksatri古代インド社会身分の一つ。王族および武士身分。]であり、まあ、日本で言えば中小大名みたいなものです。そういう意味もあってか、[彼の思想は]洗練されています。ある意味で、非常に「哲学的」でもあります。日本では、充分に彼の思想が紹介されているとは言えませんね。日本仏教は、葬式仏教ですから(笑)。日本仏教に対する批判の根拠として、「シャカの仏教に戻れ」と言うことが十分できると思います。
インドでは、カースト制という身分制が今でも残っていて、逆に仏教は、平等思想を唱えていますから、「アウト・カースト」、被差別層に仏教徒が多いことも注目すべきことです。[仏教と同様に]世界宗教は、なんらかの形で、人類全体を対象にしていると言えます。特に、シャカの場合は、複数の仏陀(ブッダ)を認めていますね。何人であろうと修行をつめぱ仏陀(覚者)になれるのです。(それとは逆に、例えば、ユダヤ教とは、ユダヤ人の宗教、神道は日本人の民族宗教である訳ですね。)彼は、大名の子として生まれますが、彼の国は強国に挟まれて苦しみます。継母との関係という解釈もありますが、「人生は苦である。」というのが、彼の出家の動機です。[中年の出家というのは]女房・子どもを捨てていく訳ですから、金持ちでなければ出来ません。女房・子どもの生活が保障されている階層のみで可能である訳です。有力大名から、「私と手を組んで、戦国時代を乗り切ろう」と誘いを受けるのですが、シャカはこれを断わって出家する訳です。
特徴の第一点目として、彼は山の中、森の中に入って行きます。恐怖とどう闘うか、恐怖を乗り越えようとするのです。「人生苦なり」というのは、世俗的な中にいるからだと考えました。世俗的なもの(例えば、家、会社、出世など)から逃れれば、自由になる。「苦」があるのは「欲」があるからだ。「生きたい」という欲すら無い状態へ自らを追い込もう。「欲を滅する」為に、森や山の中へ、と入って行く訳です。
特徴の第二点目としては、[イエスの場合とは違って]シャカは、修業者同土での時々の対話は、行っています。
特徴の三点目は、“乞食"(こつじき)ですね。(これは、岩波文庫『仏陀の言葉』の中に詳しく触れられています。)第1に、加持祈祷[かじきとう。病気・災難を除くために行う呪術の一種、今日の日本では、大金を払って加持祈祷が行われる。]を禁じています。(日本の葬式仏教との大きな違いですね(笑)。第2に、厳しい戒律を持っています。「衣鉢」(いはつ)というのがあるんです。それは、「服は二着まで。」「食料を蓄えてはいけない。」「金を持ってはいけない。」と言ったもので、鉢一つを手にして、民衆の中に入って行こうとしますね。民衆とのコミュニケーションを追求した訳です。(物への執着を脱するという問題を現在の日本に当てはめて考えてみますと、社会的必要労働時間が短くなっても、その分なかなか市民運動の方に回って行かないという面があります。それは、「物の豊かさ」にしばられているからであり、物に対して自立できなくなっているからです(これは後に、へ一ゲルのところで詳しく述べましょう。)
シャカの教えと行動を整理すると、@山の中でのメディテーション(瞑想)。A相互のディスカッション。B民衆とのコミュニケーション。と言う風にまとめることができます。「メディテーション」で目指すのは、「解脱」(ニルバーナーと言います。イコール「脱我」のこと)ですね。「私」という意識から離れて行こう、「私」という意識から出て行こうという行為です。仏教では、[座禅を組むなどの]なんらかの身体的行為をもって、意識集中を行い、この「解脱」を行おうとする訳です。哲学は、逆に、身体的行為を排し、思考することを追求しますね。)「私」という意識から出ていく、と言うのは「私利私欲」とか「我が身かわいい」「我が子かわいい」とか言いますよね。つまり、「私」に縛られている状態から解放されよう、と言うことをめざした訳です。
では、「自立」というテーマから、シャカの思想を振り返ってみましょう。彼は、「人生は苦である」と考え、「苦からの自立」を求めた。「苦は欲」から生まれるのであるとして、「欲を滅する」為に、「出家」、すなわち「家」を出、脱世間、つまり「世俗から離れる」事を実践しました。そして最終的には、それは脱我、つまり「私」という意識からの「解脱」によって解放をめざすとなる訳です。まとめて言うと、シャカの自由・自立とは、「脱」の自由、「出」の自由、「離」の自由であると言えます。
イエスやソクラテスは[時の権力に]殺されたのに対して、シャカは、殺されませんでした。逆に信者がたくさん集まってきます。集団入信が特徴的です。欲も、家も、捨てていない人が、大量に入信してくる訳です。これが、仏教の最大のパラドックスと言えます。彼は、権力構造に内在して、それを否定したのかと言えば、そうではありません。「脱」「出」「離」を目指したのです。逆に言うと「家」は残り、「世間」は残り、「欲」も残っていたのです。何も否定していない連中が、ドカッと入ってくる訳ですから、結果として、逆に世俗的なものに同質化させられてしまう訳です。これがシャカの求めた自由や自立の構造的欠陥と言えるでしょう。現在、日本のサラリーマンの間で、「メディテーション・ブーム」が起きています。週に何回か道場に行って、座禅を組んだりして瞑想の世界にはいる訳です。何だか心の中がスッキリする訳です。しかし、座禅を組み終わって、一歩外に出ると、又翌日からの厳しい日常生活が待ち受けている訳です。すなわち、「脱」や「出」では、後に残ったものを何一つ否定することができない訳です。
【5】ソクラテスの対話法
ソクラテスは、ポリスの思想家です。「哲学は政治と無縁」というのは、日本だけの傾向です。彼は、「人民裁判」にかけられて、死刑の判決を受けます。その告発の理由は、「青年に有害である教育を行った。国家の認める神々を認めず、新しいデーモン(神霊)を勧めている。」つまり、「国家の認めていない神をあがめた」という理由で、死刑になる訳です。
当時のギリシアでは、裁判は、「民主主義裁判」=「人民裁判」なんですね。人民の前で正々堂々と意見を闘わせる訳です。だからソクラテスは堂々と死ぬことができた。この点が日本と違いますね。戦時中の天皇制裁判のように秘密的ではないのです。[日本の場合]裁判にかけられて、たとえば「唯物論研究会事件」で百数十人が検挙されたのですが、哲学者で非転向を貫いたのは、1人、2人だけなんですね。
ソクラテスは、実際は何を行ったかと言うと、問答を行ったのです。人々が信じている事柄に対して「どうして?」「根拠は?」「何故?」「理由は?」を尋ねたのです。これが宗教を背景にした権力者たちの中に、「若い青年をけしかけている」と憤慨を呼び起こし、「理屈を言うな」という具合になる訳です。哲学は、歴史上常に宗教的弾圧にさらされます。例えば、カントですら、執筆停止処分を食らったほどです。
ソクラテスにとって「哲学」とは、「生活を吟味すること」です。つまり、「日常生活者の信念の根拠を問う」事で「自已批判」を促します。「信じるにたる根拠を求める」訳です。人々の信念を、自分の思考で再構築するのです。この「根拠を問う」ということが、「哲学」であり、「哲学する」という行為なのです。すなわち、既成の観念、あたりまえと思われていることに対して、問いを発することですね。俗に言う「利口な生き方」には、問いがありませんよね。これは「自立」ではない訳です。ただひたすら権力に向かって同質化していくのです。
ソクラテスの「弁証法」の原点は、「対話法」です。「よく生きる」とは、同時に「対話術」でもあります。その特徴と内容を5点にわたって上げることができます。
@彼の哲学は「実践的性格」を持っています。ポリスの政治哲学な訳です。ただ単に「生きる」のではなく、「良く生きよう」という事が、哲学の目的・意志であるとしています。その実践的目的、「良く生きる」という探求のプロセスが、哲学であり、重要だとしているのです。
A「内在牲」ということです。ギリシャ語でエイロネイアー、ドイツ語だとイロニー、英語ではアイロニーと言いますね。よく、「アイロニカルに生きる」とか言いますよね。もともとは「知っていて知らない振りをすること」ですね。「信じるか否か」「飲むか飲まないか」と言った、自分の確信を相手に押し付けるのではなく、相手にまず、自分の自己確信を述べさせる訳です。「聞き上手」と言われるやつですね。まずは、相手の立場にたって、自分自信を相手と結びつけるという事です。これを「内在原理」と言います。
Bそして、「問いを発する」訳です。他者の主張にまず内在します。そして、その他者の自己確信を述べさせた上で、問いを発する訳です。その他者の意見の中の矛盾を対象自身に自覚させるのです。他者の矛盾を、その人間自身の思考によって露呈させるのです。「矛盾を自覚させる」のです。「無知の無知」とは、「自分がものを知らないということすら知らない」ということであり、「井の中の蛙」というやつですね。それに対して、「無知の知」というのは、「自分が、例えば、大海を知らない、と言うことを知っている」訳です。この、「知」と「無知」の間、すなわち、「知」であると同時に「無知」であること、これが、“問い"なのです。例えば、受験は、「設問」に対して決まった「回答」がある訳でしょ。言わば、ゲームのルールにしたがって、「問題を解いていく」訳ですね。受験生は、“問う''ている訳ではないのです。私たちにとって、“問い"を持っているか否か、と言うのが非常に重要だと言えます。「人生の問い」「人間の尊厳とは何か」というのは、“答え"がある“間い''とは限らないのです。自分の人生でもって、その“問い"に“答え"て行く訳です。問うということは「知らないと同時に知っている」ということです。自分の人生に自ら“問い"を立てること、これが大切なんですね。
C「否定的弁証法」とは、まず最初にある「直接的確信」に問いを発し、「ぐらつかせること」です、「本当にそうなのか?」「その根拠は何か?」と、自分が確信しているものに対して、疑問をぶつけ、まずは、ぐらつかせてみることが必要なのです。
D「肯定的弁証法」とは、その無自覚な意識の中に、既に孕まれているもの(真理)が生まれ出るのを助けることを意昧します。「よく生きよう」という思想は、対話者の意識の中に、既に孕まれているんですね。この新しい思想・生き方を自ら産出するのを手伝う訳ですね。
このような5つの特徴から、「哲学」とは、「Philosophy」、つまり、「知恵を愛し求める行為」として成立し、「哲学する」というプロセスの事を意味する訳です。ソクラテスは、このようにして、世俗的偏見等から自立して、ポリスの哲学をめざしたのです。
では、今度は、ソクラテスの限界を見てみましょう。その一つは、ソクラテスにも弟子がいるんですが、弟子の目でプラトンが書いているので、ソクラテスのみが「問い」を発し、相手がぐらつくことになる。相互自立的でなければならないのに、やはり、上下関係になったのですね。勝負が、話す前から決まっていると考えるのは、駄目なのですね。相互に相手が、自覚できるように、相互的な関係でなきゃいけません。
2つめに、(キリストのように)個別的不幸に対して、ソクラテスは直面しないんですね。アテナイは市民の国であり、自前の金で兵器を準備する。「ポリス」は、自由民の組織ですが、それは「オイコス」という奴隷的労働の組織があって初めて成立していたんですね。ソクラテスの哲学は、「ポリス」しか対象にしていないという眼界性をもっているんですね。「ポリス」の中でのみ、相互自立的なのです。このように、哲学の始まりは、自由時間の特権的所有と不可分なのです。(今回の「東欧革命」についても、自由時間が特に都市部で、市民の自立を生み、いわゆる「市民社会」を産んだ面があったのでしょう。)
【6】へーゲルの自立論
ちょっと話が難しいですか。まあ、プロの哲学者でも難しいことですから。ある意味では、哲学なんて言うのは、難しくて当たり前ですからね。難しいから、「つまらない」とか、そういう風には思わないで下さい。要するに、思考を鍛えるシュミレーションゲームみたいなものですからね。
さあ、先程述べた、「ソクラテスの対話法」の限界はですね、「ポリスの哲学」というのは、確かに良い面もあった訳ですけれども、その下に「オイコス」という、女・子供、それから奴隷達が、額に汗して働いている。そのことによって、自由時間が行使できる人がポリスを形成している。「ポリス構成員の間の対話」であった訳です。ところが、現実の対話というのは、そういうかっこうのものはありません。夫と妻が対話をするという場合は、(今日の日本社会にも言えることですが、)「主(しゅ)一奴(ぬ)関係」が出てくる訳でしょ。それから親子でもそうですよね。男と女、先生と弟子、もちろん経営者と労働者、これらは、こういう権力関係が一方でありながら、つまり、「支配一被支配の関係」を伴いながら、対話的な構成を持って行かなければならない訳ですね。こういう現実を見すえた弁証法と言うと、へーゲルの弁証法になります。(やっぱり、へーゲルの弁証法、この「主と奴の弁証法」から、マルクスなんかが出てくるというのは、それが非常にラジカルであると言うことですよね。)
さあ、それでは、へーゲルの「自立論」を考えてみましょう。へーゲルは、自立には、3つのモメント、3つの側面が必要だ、と考える訳です。
まず第一は、「自我―自我」と呼ばれるものです。これは、「アイディンティティ」とよく言いますよね。アイディンティティと言うのは、「同一性」ということですね。「私は私と同じである。」「私は私である。」というのは、同一的ですね。これをアイディンティティと言います。だから、「私は私である。」という意識が無かったら、自立できません。例えば、子供が飴を買いに行くとしますね。「お母ちゃん、飴を買いに行ってもいいか」と聞いて、「ああいいよ。」と言われたら、飴を買いに行きますね。いちいち、尺度はお母ちゃんにある訳です。子僕というのは、保護者が必要なんですね。だから、行為の尺度が自分にはない訳です。だから、お母ちゃんがああいいよ」と言って、行かせて、途中で車に跳ねられたりするとですね、すると、お母ちゃんは思い悩む訳です。自分に責任がある、と。子供というのは、そう言うものなんですね。つまり、自分の中に行動の尺度というものがなければ、自分には責任がない訳です。と言うことは、これはまだ、自立していない、という事ですね。我々が「自立している」というのは、自分自身の行為の尺度は、自分自身なんですね。だから「自己決定」をする訳でしょ。それが、誤っておれば、あるいは、それが人を傷つけることになると、刑事上・道徳上の責任が問われる訳ですね。例えば、犬が畳の上でおしっこをした、これはけしからん事ですね。しかし、その責任は[犬に]聞えませんよね。犬に条件反射でも覚えさせないかぎり。これは、飼い主の責任ですね。それは、犬と人間の違いな訳です。人間は、行為の自由の選択を、自分自身の尺度に基づいて、行う訳です。だから、これが「自立した主体」となるのです。ところが、未成年とか、あるいは赤ちゃんとか、子供とか、あるいは政治領域で言うと、指導者にリードされなければならない受動的な大衆とか、こういうものは、自分自身の側に行動の尺度がない訳ですね。だから、「私は私である」という、これは非常に単純な同語反復のように見えますが、これが無かったらもう、全然「自立」はありえません。無責任な訳です。責任持てない。これが第一点目です。
それから、自立の第二の条件は、「物」です。我々は、自立しようと思うと、人間は自然存在ですから、仙人のように霞を食って生きて行く訳には行きませんよね。(霞も、まあ自然ですけどね。)だから、そういう「もの」の世界、自然の世界の中に、自立の根拠を求めなければならない訳で、自然を全部拒んで、「自分は超自然的な霊魂だ」とか言っても、自立はできないのです。先程の釈迦のように、「欲を滅する」と言うことを、へーゲルは拒む訳です。そうではなくて、我々の自我の自立の為には、やっぱり、「欲求の充足」というのは必要なんですね。つまり、人間自身が、自然存在、エコロジカルな存在だからです。だから、そういう「欲求主体」としてその欲求を充足する、相互に交渉し合うような「自然」を、あるいは「物」を持たなければ自立できません。「霊魂として自立する」というのは、へ一ゲルの「自立論」の中には入らない訳ですね。これは、非常に大事なことです。むしろ、「人間が自然的存在である」と言うことを強調することによって、今日のエコロジー的な課題を意識できる訳でしょ。これが、へーゲルの言う第二の問題です。
第三は、「他我(たが)」です。「他の我(ほかのわれ)」。「他の我」と言うのは、他者であると同時に、私と同じ「自我」なんですね。これは非常に大事なことです。狼少年が自然の中で、自然と交渉して行っても、いくらたっても普通の人間にはなれない訳ですね。なぜでしょうか。それは、「他我(たが)」を持たないからです。我々の精神というのは、へーゲル流に言えば、「我(われ)である我々(われわれ)」「我々(われわれ)である我(われ)なんですね。こういう「我々」という社会のなかで、それぞれの個別的主体が戌立するのです。これは、へーゲル著『精神現象学』[1807年]に出てくるのですが、人間の精神というのは、「我である我々」「我々である我」である、と言っています。
だから、個別的主体としては、そういう個別的であると同時に、「他者」、この「他の我」が無かったら、「我々」という意識を持ちえないのです。社会存在として意識できないのですね。だから、「自由でなければならない」とか「平等でなければならない」とか、「人権を尊重しなければならない」とか、そういうのは、ただ単に自然と交渉していれば出来る、と言うことでは全然ないんですね。まず第一、「言葉」が語せないですよね。そうではなくて、「他者であると同時に自分自身である」ような、「我自身である」ような存在、こういうのを「他の我」と言います。自然の場合は、「他の物」はあっても、「他の自然」はあっても、それ自身が「我」ではない訳ですね。ですから、もちろん人間は、自然存在として、そういう「他の自然」と交渉しますが、しかし、単なる「自然存在」ではない訳でして、人間にとっての真の対象というのは、「他の我」なのです。それは、「他者」であると同時に、「私自身」なんですね。だから、「私」は「我々」性を持ちうる訳です。言葉を話したり、「人間というものは…」とか「本能というものは…」とか、そういう普遍原理を主張しうる訳です。
だから、「自立」のためには、三つが必要なんですね。
第一が、「自分自身」です。自分自身を持たなければ、これは責任主体にならない。自分の行為の尺度は自分自身の中になければなりません。これが、「自立」の大前提です。第二は、しかし、人間が霞を食って霊魂だけで生きて行く、こんな「自立」は、霊魂の自立ですよね。これは、へーゲルの弁証法で言えば、ナンセンスな話しな訳です。マルクスもそうです。あくまでも、人間が自然的存在である訳です。欲求主体でなければならないのです。そういう意昧では、自分の外に、欲求充足のための自然と交渉を持たなければならない。自然との交渉の申で、我々は、生きる訳ですね。これなしでは、「自立」はありえません。
第三は、「他の我」です。単に他者ではなくて、他者であると同時に私自身ですね。我自身ですね。赤ちゃんが最初に住む住所はどこでしょうか。お母さんのお腹の中ですね。人体です。赤ちゃんが食べるのは何でしょうか。人間皆ドラキュラですよ。お乳というのは、おっぱいというのは血液ですよね。だから、人間は、全員食人主義です。ドラキュラです(笑)。これは、別に何もおかしな話じゃないですよ。何度も言うように、「他の我」なしには、人間は人間ではありえないのです。狼少年は、人間としての自立を展開しえない。言葉も話せない。自立的な道徳主体にもなりえない。政治主体にもなりえない。
だから、自立というものを考える場合は、この3点[@自我、A物(人間が自然存在であると言うこと)、B他我(人間が社会存在であると言うこと)〕を、考えなければならない。どれか一つを抜かしたら、自立はありえないのです。
さあ、すると、この3つを同時に満たす自立の条件というのは、どこにあるのか。これは、へーゲルに言わせれば、最終的には、「相互に承認し合うこと」「相互承認」ですね。ここにしかない訳です。「相互承認」というのは、「自己肯定的他者否定」と「他者肯定的自已否定」、この両面からなります。ちょっと難しい言葉が出てきましたね。
我々の自立というのは、孤立した人間が山の中に行けば、自立できるのかと言えば、へーゲルは「自立できない」と言う訳ですね。当然そうでしょ。3つの条件が満たされないのです。「私は私である。」これは自立の大前提ではあっても、あとの、自然存在であると同時に社会存在なんですから。だから、自然が必要であるし、社会が必要ですね。つまり、他者であると同時に自己であるような、そういう本質において等しい他者が必要なのです。これがなかったら、自立できない訳です。だから、釈迦の自立論と全然違います。
すると、そういうものが、相互に自立し合うというのは、最終的には、相互に承認し合う以外にはない訳です。たった一人で、「俺が俺が」と言っていても、自立できないのですね。さあ、すると、「相互に承認し合う」とはどう言うことでしょうか。[例えば]子が親を、親が子を承認する、あるいは妻が夫を、夫が妻を、先生が弟子を、弟子が先生を相互に承認し合う、こういう関係ですね。一方の側面としては、「自已肯定的他者否定」があります。自已を、自己肯定的に他者を否定することによってはじめて、私は個体として、自己肯定しているのです。他者を否定する事によって自已肯定している訳です。ところが、他者を否定することによって自己肯定するだけだったら、これは単なる「否認」になりますね。一方的な。他者を否定するばっかりですから。これは、本当の自立にならない。(これは又、後で問題になります)。
もう一つの側面としては、「他者肯定的自己否定」です。他者を肯定する自己否定ですね。例えば、「泣く子と地頭には勝てない」とか言いますね。お母さんは、赤ちゃんが「エンエンエン」と泣いたら「はいはいはい」と言って、何でもしますね。そういうのは、「他者肯定的自己否定」ですね。「他者肯定的自己否定」だけでも、これも、自立にならないのです。
トルストイ『復活』の、例の「カチューシャ可愛いや」、あれでもそうですね。ネフリュードフは、インテリで公爵ですね。カチューシャは、身分が低く「人殺し」の罪を背負っておりますね。だから、カチューシャは拒否する訳です。そういう押し付けがましい「他者肯定的自己否定」を。これも大事なことですね。ですから、「相互承認」の中には、一方で「自己肯定的他者否定」を行い、他方で「他者肯定的自已否定」を行う。そう言うものを相互が行う。相互が、これが「相互承認」で、この「相互承認」においてのみ、本当の自立があるんだ、と言うのがへーゲルの言い方なんです。ちょっと、何を言っているのか分からなかったかも知れませんが、ここまでは前段なので。これから、これを具体的に見て行きましょう。
人間は、本当は、へ一ゲルに言わせれば、「相互承認」でしか自立はないんだけれども、先程の弁証法じゃないですが、最初からそう言うことは、分からない訳でしょ。やってみなければ。やってみてはじめて自覚していく訳ですよね。真理は最初から与えられていないのですから、最初は「承認のための生死を賭した闘い」、ここから始まるのです。個々は(つまり、両方がですよ)、私も相手も、両方が、「自己肯定的他者否定」で突っ張り合う訳です。つまり、エゴイズムとしてあらわれる訳です。「私のために、お前は自分を否定せよ。」相手も、「私のために、お前、自分を否定せよ。」と、こういう風に両方が、「自己肯定的他者否定」で突っ張り合う訳です。すると、どうなりますか。これは結局、相互に「生死を賭した闘い」になる訳ですね。ホッブスの言う「万人の万人に対する闘い」という、こういう形になる訳です。侵略戦争なんかを考えてもいいでしょうしね、夫婦喧嘩でもいいでしょう。例としては何でもいいんですが…。
自己を肯定するために一方的に他者の否定だけを求める、これは、このもう一つの方の「他者肯定的自己否定」を、相互に拒んでいるのですね。一方的に、相互に「自已肯定的他者否定」を求めて行きますと、これは「生死を賭した闘い」になりますね。つまり、両方とも死んでしまうようになりますね。「共死」してしまう訳です。だから、そういう「相互承認」しないで、「自己肯定的他者否定」ばかりで突っ張り合って行くと、弁証法的にひっくりかえってしまって、(弁証法は、対立物へ転化しますね)「自己肯定」どころか、「共死」してしまう訳ですね。ひっくりかえってしまうのです。
そういう転倒を通して、我々が何を意識していくかということについて見てみましょう。やはり突っ張り合ってるばっかりでは駄目だ、と言うことを意識するのです。戦争でも、軍拡競争でもそうですが、「相手が悪い」「相手が悪い」とか言っていたら、相互不信を募らせるばっかりですね。すると、「共死」のコースになってしまうのですね。「相手が脅威だ」「相手が脅威だ」とやっておったら、「共死」してしまう訳です。そういう「共死」の体験をする訳です。これが結局、自立をめざして「俺が自立するために、お前は自己否定せよ」と、相互に要求し合って、結局、両方とも、自立どころか死んでしまう訳でしょ。だから、そういう命からがらの体験を通して、日本人が載後「平和だ」「平和だ」というのも、そうですよね。日本人に限らないですが。「他者の命も、他の生命がなくなれば、自分達は自立できないんだ。」「ただ他者を屈伏させれば自立できるというのは幻想であって、我々自身、生命を共有する存在なんだ」そういうものを体験していく訳ですね。(原爆の論理もそうですね。)そういう「共死」の経験を通して、人間の自立にとっては「生きる」という、自然存在として生きて行くという、これがなけれぱ自立もへったくれもない、という経験をする訳です。すると、結局一方的に「自分が自立するために、お煎は自已否定せよ」というこの論理は、もうこういう体験を通して、乗り越えなければなりませんね。すると一歩高い意識へと自立を高めた事になるのです。
さあ、「共死」の経験から、一歩高い自立の意識というのがどういう形で出てくるのかと言うと、すぐにそういう「相互承認」に行くかと言うと、実はそうじゃないんです。そこがへーゲルの面白い所ですね。
その次に、我々の意識として高まって行くところは、「主(しゅ)−奴(ぬ)の関係」なんです。つまり、共死の経験をして、「これは命が危ない」と意識した人間と、「えいえいおー」でまだやっている人間とでは、意識した人間のほうが、意識は上でしょ。しかし「えいえいおー!」でやってる無謀な人間は、意識としては下ですけれども、「俺は命を賭けてる。命なんて惜しくない」といった人間の方が闘いに勝っちゃう訳ですね。「このままいったら共死だ」という生命の危険を感じて、恐怖心をつのらせた存在は、矛を納める訳です。矛を納める側は、「奴」になる訳です。蛮勇をふるっている人間は、まだ無知のまま「えいえいおー!」をやリ続けており、「このままいったら奈落の底だ」というその底を覗けない人間は、そのまま「えいえいおー!」でいく訳です。これは「主」になるのですね。こういうような「主と奴の関係」が出てくる訳です。これは男女の関係でもいいですし、労働者と経営者の関係でもいいでしょうし、親子でも、教師と生徒でも、何でも当てはまると思います。
その「主」の方は、「えいえいおー!」で、そのままいく訳ですから、一方的に「自己肯定的他者否定」を体現する訳です。だから、「主」になれる訳でしょう。命を賭けたんだから。全然びびらなかった訳ですから。びびらなかったと言う事は、びびる程人間存在の根底に潜んでいる危機を見なかった、という事ですね。この場合、「無知」は力である訳です。それに対して、その存在の根底を脅かすような、そういう深淵を覗いた人間は、やっぱり、矛を納めざるを得ないのですね。すると、こちらは「他者肯定的自己否定」の方を選ぶ訳です。一方は「えいえいおー!」のままで、他方は、矛を納めて「他者肯定的自己否定」の方に移る訳です。これは「相互承認」ではないですよ。「相互承認」は、相互に、両方「他者肯定的自己否定」と「自己肯定的他者否定」を、行わないといけないのです。それが本当の「自立」なんですが、人間は悲しいかな、生死を賭した闘いで、共死の体験をしても、意識の遅れた人間は、そのままやっちゃう訳です。しかし、危機を覗き見た人間は、矛を納める訳ですね。つまり、他者を肯定するために、自己否定の倒に移る訳です。このようにして「主一奴関係」が成立するのです。
次に、この「主一奴関係」というのをへーゲルは間題にする訳です。だから我々は、いっぺんには「自立」はできないんですよ。こういう、人と人との生死を賭した闘いの経験、それから屈辱的な隷従関係、こういうものを通して自立できる。これがへーゲルの「自立論」の非常に説得的なところですね。と言うのは、我々の現実世界にはそう言う隷従関係、権力関係がある訳ですからね。
さあ、この関係を、へーゲルがどう見ているのか。まず、「主の概念」を見て下さい。「主」は「自己肯定」していますね。だから、「私は私である」と、こういう風に「自己確信」している訳でしょ。だから、その点では「自立している」訳です。しかし、「主」は自分だけで自立しているのではないですね、勿論。先程言いましたように、自立には、「自己確信、自我は自我である」という事と同時に、「物」が必要だし、「他我」が必要ですね。こういうものを介して、「主」は自立してる訳です。実は。
さあ、この「主」の自立の構造を見てみましょう。資本家が自立している、とか、あるいは夫が自立しているとか、そういう者の自立というものの構造を、ちょっと考えてみましょう。「主」は、「主」だけで自立している訳ではなくて、「物」、それから「奴」という他者ですね。こういうものを通して自立している訳です。さて、この三角関係をバラしてみましょう。すると、「主」は、「物」を通して「奴」を支配する。「主」は、「奴」を通して、他の人間を通して「物」を支配する。この二つにバラす事ができますね。
「主」は、自立存在です。「主人」という風に奥様は言いますね。あるいは雇用主・雇い主、と言いますね。これらは、裸で「奴」や、他の人間を支配するのではなくて、あくまで「物」を通して、他の人間を支配するのです。同時に、裸で「物」を支配するのではなくて、他の人間を通して「物」を支配する。まん中に、「物」や「奴」を入れて、「奴」や「物」を支配する、こういう形を取るんです。
例えば、「主」は「物」を介して「奴」を支配する、これがどんな場合か見てみましょう。例として、労働者がですね、会社で、民青系の軽音楽のサークルに入ったとしますね。すると、「何故お前そんなのに入ってるんだ。お前は、縁故で、叔父さんの引きで入社したんじゃないのか。お前の一族皆が、この松下電器に世話になってるじゃないか。自己批判して、サークルをやめろ。」と、今でもやられる訳ですよね。結果として、松下電器は、最後に負けたんですけどね。有名な裁判です。そう言う時に腹を立ててですね、「何だとそれは。我々労働者に何をしようと言うんだ。別に会社が終わってから、どんなサークルに入ろうと自由ではないか。」と、こういう風に言っても、許さない訳です。権力関係がありますから。「嫌だったら、別に、他の会社に行って下さい。」と言われたら終わりですから。労働者は、女房・子どもを抱えて大変ですよね。つまり、資本家は、「生産手段」という「物」を持っている訳ですから。これは、彼の[資本家の]ものなんですね。だから、「私」は、「彼の物」と結び付かなければ食っていけない訳でしょ。まあ『資本論』でも問題になってきますけどね。「生きた労働」と、「労働の客体的条件」、すなわち「田」とか「畑」とか「機械」とか「工場」とか、こういう「物」と、まずブチッと切ってしまう訳ですね。「主」の側に囲い込んでしまうのですね。
そうすると、この「奴」を支配することができるのです。「主」は「物」を支配し、「物」が「奴」を支配するのですね。
例えば、分かり易い例を言うと、「売春」なんかはですね、チンピラが家出の女の子なんかを連れてきて薬をうつ訳でしょ。すると、この女の子は、「物」=薬がなければ、もう生きて行くことができなくなりますね。こういう風に、「物」と「奴」が切っても切れない関係にしておいて、しかも物と奴の関係を断ってやれば、つまり、「物」を支配すれば、「奴」を支配できますね。『資本論』では、これと同じ事を言っている訳です。農民は土地を持っていた訳でしょ。資本主義社会ができていくプロセスで、農民と土地の関係をブチッと切った訳です。イギリスでは16世紀位です。これを「原始的蓄積」のプロセスと言いますね。「主」は、「生きた労働」と「労働の客体的条件」=「自然的条件」をブチッと切る訳です。「物」を「主」の側へ囲い込んでしまうのです。すると、「奴(生きた労働)」は「物(生産手段)」が無ければ何も作れないし、作れなければ食って行けませんから、だからこの「物」を押さえれば、「奴」を支配する事ができますね。すなわち、「主」は「物」を介して「奴」を支配する、とへ一ゲルは言っているのです。だから、「亭主」とか、それから「雇用主」とか、こういう者は、「物」を介して他の人間を支配する。そう言う形で、自己の自立性を確保している訳です。
では、もう一つの側面、すなわち「物」を「主」はどういう風にして支配するのか、を見てみましょう。「主」自身が「物」に働きかける訳ではありませんね。例えば、松下幸之助が、工場で一人黙々と働いても、全然製品は出来っこありませんよね。そうではなくて、「物」も又、「主」に対しては自立的でしょ。自然というのは厳しい存在ですね。そう言う厳しい自然に立ち向かって汗水たらして、自然を加工して初めて、我々は自然を人間化し、消費できる訳でしょ。自然そのものは荒涼としたものなんです、そういう「物」に人間が労働を投下して、消費できるような物にする訳でしょ。最初から自然は人間に微笑みかけてはいないのです。人間は自然存在ではありますがね。
すると、その「物」の、自然の、人間からの自立という部分を克服するためには、どうちょうど「主」が、「他の人間」の自分からの自立性を克服して、自分のものにする為に、まん中に「物」を入れたように、「物」の自立性を克服して自分のものにする為に、真ん中に「他の人間(「物」への額に汗する労働)」を入れるのです。これでもって自然の自立性を支配してしまう訳です。
これは、今日における「エコロジー危機」問題なんかに顕著ですね。例えば、紙を乱費したりしていますね。山肌があらわになって丸裸になりつつあります。地球環境の危機ですね。それを、私たちは意識しないでしょ。何故でしょうか。勿論、「奴」の労働が真ん中に入って、「物」の自立性を奪っているからですね。だから「エコロジー危機」というのは、我々自身が加害者であることを意識しない訳です。あるいは、皆さんのような青年は、「消費文化だ!」とか「享楽主義だ」とか言われますね。「お客様は神様だ。」と言われますよね。こういう「消費文化」の意識も又、この「主の意識」なんです。自分達は、額に汗して自然に向かって、自己労働によって何かを獲得するという、そういう人間的な形態、対象化するという、額に汗する部分が消えている訳でしょ。これは、例えば「低開発国」の人々がやるとか、安価な労働でやるとか、あるいはお父さんが、親が働いてくれるとか、まあそれらは突き詰めて行けば、この「低開発国」の安価な労働で、「奴」を真ん中において、我々は「消費文化」を享受している訳です。
これが「主」のもう一つの側面です。ここには非常に危険が孕まれていますね。両方に危険が孕まれています。「奴」の自立性を奪って「奴」を我が物にするために、「物」を支配する。「物」の自立性を奪って「物」を支配するために、「奴」を真ん中に入れる。こういう形を通して我々は、「エコロジー危磯」へと、あるいはそのいわゆる「帝国主義支配」というか「享楽文化」へと、ひた走っていく訳です。
これは実は「自立」になっていないのです。何の「自立」にもなっていませんよね。と言うのは、人間自身が自然存在なんですから。この自然存在の根を掘り崩して行っている訳でしょ。あるいは、対等な他の人間との「相互承認」がなければ駄目なんですよね。それを、一方的に、他者の「自己否定的他者肯定」を求めるのですから。「奴」の側のですね。例えば、「泣くこと地頭には勝てない」と言いましたね。「えんえん」と赤ちゃんが泣いたら「はいはい」とお母さんは応えますよね。お母さんは「相互承認」はしない訳です。されない訳です。一方的に「他者肯定的自己否定」をするのですから、「泣く子」は自立していないのです。老人になるとよく、なんかわがままになって行く人が出てきますよね。これも、「自立」を徐々に失なって行くということですね。つまり、他者から一方的な自己否定だけを求める主体というのは、真の自立をしていないという事なんです。
例をあげると、シェークスピアの『リア王』を読まれたことがありますか。リア王というのは、かたくなな男でですね、自分の言う事しか聞かないんですね。彼に何か言おうと思ったら、「道化役」になってですね、えへらえへら笑いながら言わないといけないのですね。そういう人間は結局のところ、自立できない訳です。何故かと言うと、回りに、自立した人間を誰も持てないからです。りア王は、本当に自立してものを言う人間を、「出てけー!」と言って、追い出してしまうんですね。結局、揉み手の人間しか回りに残らない訳でしょ。揉み手の人間しか回りに居ないということは、なんら自分が自立していないということです。ちょうど赤ちゃんのように、「えんえんえん」と泣いたら、「はいはいはい」というお母さんが必要になる。そう言うことです。だから、この「主」の論理は、結局「エコロジー危機」を孕んでいるだけではなくて、なんら自立の論理を孕んでいないのです。「自立」しているように見えて、実はなんら「自立」できていいないのですね。だからほら、対立物へひっくりかえって行ってますね。生きていけなくなるのです。さあ、すると、この「主の意識」の中には「自立」はないのですから、この「主の意識」の中では「自立」を体験できなかった我々は、次の部分へ進んで行かなければなりません。それは、「奴の意識」です。
「奴の意識」の中に、実は真の「自立」を孕んでいるのです。まず第一に、「奴の意識」は、「生死を賭した闘争」をやって行くと結局「共死する」、すなわち人間というのは命ある存在であって、命がなくなれば「自立」も何もないんだ、人間というのは自然的エコロジカルな存在なんだ、と言う、そういう体験の結果として「奴」になった訳ですわ。「えいえいおー!」というその矛を納めた訳です。だからまずこの「奴の意識」は、自分がそういう「自然存在」であり、「生命ある存在である」と言う意識を体験しています。まず第一にですね。
次に、「奴」は「他者肯定的自己否定」というものを体験します。「奴」は「他者肯定的自己否定」をどこで体験するかと言うと、「主」を肯定するために一方的に「奴」は自己否定した訳ですね。だから、「主」は「他者肯定的自己否定」を全然しなかったのです。「物」に対しても単に一方的に「物」を否定するだけではなくて、「物」の自立性を、つまり消費主体と違って生産主体ですから、「物」は「物」としてある訳ですが、そこに人間的形態を付与することによって、自分を「物」の中に対象化していく訳です。「主」はそうではありませんよ。逆に、その対象化された人間的形態を、ただ否定するだけなんですね。そうではなくて「奴」のほうは、「形成する」、形づくる、そういう額に汗する労働をする訳ですね。消費するだけではなくて、消費する欲求を押さえて、他者の自立性を承認した上で、そこに人間的形態を作ろうとするのです。そういう、その「物」の自立性を尊重した形での「物」の変革を行う訳ですね。そういう問題がある。
それからもう一つは、「恐れおののいた」という問題があります。これは、先程の釈迦の思想の中にもあるのですが、こういう「奴」の側は、闘いのなかで「恐れおののいた」訳です。つまりこれは、我々が闘いという場合ですね、相互に競争しあってですね、受験でも競争し、職場でも競争し、お互い相手と敵同士で闘って行く訳でしょ。その結果として、そういう「共死」の体験を経験しますと、やっぱり「恐れおののく」んですね。「恐れおののく」という体験を通して、競争というもののむなしさ、競争という、つまり「自己肯定的他者否定」ばっかりやってる。そういう路線では「共死にする」しかないんだという、そういう体験を我がものにすることができる訳ですね。すると、そこには、「生死を賭した闘い」とは別の次元の人間関係というものを浮かび上がらせうる論理が潜んでいる訳です。それが、へーゲルが一番問題にするところですね。
つまり、「奴」は、相互の「奴」と、一の「相互承認関係」を形成しうる意識体験をつんでいる訳です。
「主」では駄目ですよ。「主」は、まだそういう「自己肯定的他者否定」の側面しか意識していませんから。しかし「奴」の側は、今まで見てきたように、最初は「自已肯定的他者否定」でやってきましたね。その結果、「生死を賭した闘争」に落ち込んで、それで、「恐れおののいて」ですね、自分自身自然存在であると言うことを自覚して、それで、別の人間関係を作らなけれぱならないということですから、「自己肯定的他者否定」を意識すると同時に、逆に「主」に対しては「他者肯定的自己否定」を体験した訳でしょ。
すると、この両方を体験している訳です。「もの」に対してもそうですよね。「自己肯定的他者否定」を、労働によって自然を否定していますが、しかし、自然を肯定しながら自己否定している訳ですね。額に汗するという、欲求を押さえて、抑止して、「主」のようにただ消費すればいいというのではなくて、欲求を抑止しながら、そういう「他者肯定」、自然との共生、人間自身が自然存在だ、という風なそういう体験をしていく訳ですね。その両面を「奴」は経験している訳です。だから、「奴」相互に、こういう「相互承認関係」は、成立していく訳です。これが、へ一ゲルのおもしろいところです。だから、へ一ゲルとマルクスが、非常に接近しているというのが分かりますね。「奴」同士の相互関係としてですね。「奴の意識」というのは、自己意識の、自立の成果として出てくる訳ですが、「奴」において「相互承認関係」を我々は経験しうるのです。
「奴」の「相互承認関係」。ここに、一番最初に言いました自立のための三つの条件があるのです。すなわち@自分自身が主体でなければならない。自立した主体でなければならない。自分自身が行為の主体でなければならない。という意味では、「自己肯定」していなければ、これは主体にはなりませんよ。責任主体ではないのです。
Aしかし、同時に自然存在である。自然との関係においても、共生しなければならない。しかし、同時に「人間化」、自然を人間化するという側面を持っている。その両輪が必要ですね。「自己肯定的他者否定」と、他者との共存のために「自己否定」する部分と。これは、自然との関係においても言えることなんです。
Bそれから、他の人間との関係ですね。相互に、「自己肯定的他者否定」と「他者肯定的自己否定」をし合うことが必要なのです。トルストイの『復活』のように、「泣く子と地頭には勝てない」のお母さんのように、全く一方的な「自己肯定的他者否定」では、これは本当の自立にならない。カチューシャも自立できないし、泣く子も自立できないですね。「リア王」も自立できない。そうではなくて、そういう「奴の意識」において、相互に、他者とも、自然とも、「自己肯定的他者否定」と「他者肯定的自己否定」をし合う、こういう関係が必要なのです。こういう関係を作ること。これが「自立」なんです。
【7】「自由な諸個人の連合」はいかにして可能か(略)