21世紀とアソシエーション過程

田畑 稔(季報『唯物論研究』編集長)

 以下は1999117日に大阪大手前の国民会館でおこなわれたアソシエ21関西創立集会での講演である。

人類にとって資本主義とは何か?

 「ソ連型社会主義体制」の崩壊は劇的な形で時代を区切りました。これを区切りとして「長い21世紀」あるいは「早い21世紀」がすでに始まっていると見るべきでしょう。その基本内容はなんでしょうか。なによりもまず中国、インドなどの(一国だけで資本主義の中核地域の人口を凌駕するような)人口超大国、そしてロシア、インドネシア、ブラジルなど人口大国を含む、周辺部への資本主義の巨大拡張があるということです。もちろん中核-周辺構造や資本主義発展の地域的歴史的特質やさまざまな反資本主義運動が消え去ったわけでは毛頭ありませんが、16世紀ごろ島国イギリスから始まった資本主義世界システムは、20世紀初頭から70年以上も続いた「ソ連型社会主義」という、かなり強力な対抗システムを淘汰し、いまはじめて、外延的のみならず内面的にも、つまり人々の欲求構造、生活様式、行為規範、世界像などにおよぶ形で、人類全体を覆いつつあります。このことの歴史的意味をまずは問わねばならないでしょう。

 一方で世界システムの中核諸地域では、資本主義の現在と未来にかかわる閉塞感が充満していると言えましょう。文明史的に見ると資本主義は地球環境の大崩壊へ向かって我々を臨界点に近づけております。地球人口は60億に達しておりますが、人間には「わかっちゃいるけどやめられない」面がありますから、何らかの大規模な破局は避けがたいようにも見えます。情報産業やバイオ産業を中心とした「未来産業」には、自動車と家電により花咲いた「フォーディズム」型資本主義のように大衆の生活をまるごと吸引するような力はもうないと考えられております。逆に情報や遺伝子の私的支配に対しては、社会の名によるコントロール強化が不可欠となってくるでしょう。マイクロソフトは基本ソフトの90%も支配しており、遺伝子情報の特許による独占は生物種の私的支配という事態を生みかねないからです。電子メディアを利用した巨大なマネーゲームが瞬時に周辺部の国民経済を崩壊させるという事態も見られます。これらを考え合わせると、逆説的なことに、「人類にとって資本主義とは何か」が21世紀の根本問題になるのではないかと思われるのです。

 未来は可能態として現在の中にあります。可能態はある限界の枠内で未決定と非決定を本質的に含みますから、「予見」不能の面をもちます。だから我々の未来論は「予見」「予言」ではなく、「希望の未来」と「破局の未来」を並行的に構想しながら、破局を避け、希望を実現するよう、人々に行動を呼びかけるという「呼びかけとしての未来論」であるほかないのです。私の場合「呼びかけとしての未来」の中心主張は次のようになります。《アソシエーション過程を対抗過程として決定的に前進させることが、「21世紀の根本問題」に対する我々の歴史的回答でなければならない。》

 以下、そのことについて断片的論争的に述べてみましょう。

新自由主義とアソシエーション

 先日NHKのニュースで国家のリストラにかかわって、private Sectorに「民間セクター」という訳語を当てておりました。これはアソシエーション過程を閉め出すに等しい致命的誤訳であり、新自由主義的偏見の深刻さを示すものでしょう。「私的セクター」「国家(公的)セクター」と並んで「非営利セクター」(英米系)とか「社会経済セクター」(フランス系)と呼ばれる部門は先進国の場合、雇用者数、国内総生産比ですでに5%前後の数字を示しております。非営利・相互扶助・自治・協同労働などを特質とするこの部門の「成長」は顕著であり、過大評価は禁物ですが、あるアメリカの学者は大規模な実態調査にもとづき、現在「アソシエーショナルな革命」が進行中であるとまで表現しているのです。少なくともこの「第三の」セクターを積極的に位置づけなければ、21世紀を展望した議論にならないでしょう。

 フォーディズム的好循環による成長経済が終焉したあと、肥大化した国家や企業をリストラし、グローバルな競争戦に耐える「活力」を確保しようとする動きを、イデオロギー的に促進してきたのが新自由主義でした。実際は新自由主義的政策が成功しているわけでもなく、また実際の経済政策が新自由主義で一貫しているわけでもありません。にもかかわらず新自由主義がインパクトをもつのは、市場競争のマクロ経済的合理性を物神化する彼らの主張が、強者の側の競争当事者意識と強く共鳴するからにほかなりません。しかしリストラによってであれ、ベンチャーの育成によってであれ、ふたたび企業が大量に雇用を創出し、生産性上昇に準拠して労働者の収入を伸ばし、会社が家族ごと労働者を丸抱えにするという展望はまったく幻想と思われます。

 企業が大量に人々を外部化していく傾向が強くなっています。首切りやパート化や専門労働の外部化だけではありません。「一流大学・一流企業」で包摂してきた青少年をも会社主義予備軍から大量に外部化しております。では外部化された何十%の人々はどのように生活していくべきでしょうか。競争の論理でもなく、会社主義の論理でもない、生活者原理と協同労働という質を持った新しい経済生活を創出する必要性に迫られていると言えるでしょう。巨大資本間の国境をこえたメガロ再編だけが目立ちますが、住民のもっとも基本的な生活条件と雇用を確保するという観点から、地域経済と「ヒューマン・インターフェイス」領域の重要性がクローズ・アップされていることを忘れてはならないでしょう。この領域では資本制は唯一絶対ではありません。こういう文脈で「協同組合」や「協同労働」の意義が強調されており、EUなどでは法制化を含めて、一定の実績を積んでいるのです。失業対策も失業保険や再雇用のための研修や伝統的景気刺激策にとどめず、職を持たない人々が自分達で協同労働を組織するための知的資金的支援が必要でしょう。もちろん労働者協同組合法の制定も不可欠です。

 20世紀に肥大化した国家機構(中央政府と地方自治体を含む)を再編成する場合にも、新自由主義的「市場競争」コースと「アソシエイティヴ・デモクラシー」コースとがはっきり区別されねばなりません。前者は公的業務の多くを私利追求の圏域に移転するコースです。後者は公的業務の多くを民主的自治的非営利的に運営される「市民のアソシエーション」が担うシステムであり、公的業務への市民の参加とコントロールを拡大するコースなのです。

グローバリズム・ナショナリズム・アソシエーション

 小林よしのりや「歴史修正主義者」たちが論壇の一部で派手に動いております。しかし新旧日本ナショナリズムは21世紀に通用する言葉を持っておりません。彼らに対する需要は国内の自閉集団に限定されるのであって、21世紀日本のオプションとして見れば、日本ナショナリズムは最悪の選択肢でしょう。もちろん自閉の論理だからこそ、かえって多くの青年に「気分の高揚」を感じさせるという危険な土壌もあります。そのことを過小評価はできないのであって、日本ナショナリズムとの闘いを軽視することは許されません。

 「ソ連型社会主義体制」の崩壊により、政治、経済、軍事、情報、文化、言語のグローバル化が画期的に進展しました。しかしこのグローバル化は、合衆国の(G7との同盟下での)単独覇権という外化形態をとってしまっております。日本のリーダーたちのグローバル戦略は、合衆国覇権という枠組みを受容した上で、その補完者、同盟者として貢献しつつ、日本の(とりわけ政治的軍事的な)国際的地位を強化することにあります。EUのような地域統合を実現する条件も今のところありません。

 しかしNGOと呼ばれる「世界市民的アソシエーション」が国際政治のアクターとして登場してきたことは、グローバル化のもう一つの重要な側面であります。NGOは色々な問題を抱えておりますが、国民国家帰属を超えて結合し、世界市民的意識を持ち、グラスルーツに根を張り、専門知識と大衆ニーズ情報で武装しています。これまで国際政治の唯一のアクターであった中央政府のネグレクトや無能やボイコットを批判する形で、人権、軍縮、後進国援助など現実政治レベルでも影響力を持ちはじめているのです。今年5月のハーグ国際平和会議では「基本10原則」の第一項に「各国議会は、日本の憲法第9条のように、戦争放棄決議を採択すること」が掲げられました。本国では冷遇つづきの日本国憲法第9条も「世界市民的アソシエーション」の展開によって、新しいリアリティーを持つ可能性があります。日本国市民の世界市民としての責務は大変大きいと言わねばなりません。「世界市民的アソシエーション」の展開は、一般市民レベルでの知識と情報と自治能力と世界市民意識の一定の蓄積を示すものであり、その意味で「近代世界システム」を超える質を萌芽的に示すものと言えるでしょう。

 日本ナショナリズムと有効に闘い、合衆国覇権という外化形態をとっているグローバリズムと有効に闘うには、とりわけ東アジアでの国家帰属を超えた市民のアソシエーションが決定的に重要な意味をもっていると言えます。かつて日本の軍事支配という既成事実の上に欺瞞的に語られた「大東亜共栄圏」構想は協同する市民なき「協同主義」でした。いまこそ中央政府だけに自分達の未来を委ねる時代を終わらせねばなりません。

家族主義とアソシエーション

 林道義や加地伸行は「父性の復権」を訴えております。しかし家族主義や道徳保守主義は家族の危機の現象そのもの、単なる嘆きの声と考えるべきで、思想と言えるほどのものでもありません。家族の枠内でのみ日常生活世界を扱おうとするのは「家族に対する家族主義的アプローチ」であって、今日では有効性を失っております。確信型シングル、離別死別型シングル、単身生活者、同性愛カップルなど、ますます多くの人間が家族なしに、多様な形態で生きています。しかし日常生活世界なしに我々は誰一人生きていけないのです。日常生活世界を基盤的世界として確認した上で、家族をその中に位置づけるという逆の発想が必要である、というのが私の考えです。

 家族は育児能力や教育能力や問題解決能力をますます低下させております。家族を超えて横につながる「共同苦悩のアソシエーション」とも言うべき「セルフ・ヘルプ・グループ」の重要性が自覚されるべきでしょう。アルコール依存症であれ不登校であれ家庭内暴力であれ、危機に立つ当事者が価値崩壊に耐え、過酷な運命に立ち向かう力を獲得するのは「共同苦悩のアソシエーション」によってであります。世論を喚起し、官僚システムの重い腰をあげさせるのも「共同苦悩のアソシエーション」が中核にあればこそです。

 家族機能の社会化は不可逆的な過程ですが、市場化と公的サーヴィス化とアソシエーション化という家族機能の社会化の3つの形態のうち、アソシエーション化の意義が今後ますます強調されねばなりません。親たちの無責任、教員の無能を嘆く暇があれば、例えば「子育てネット」「子育てアソシエーション」の文化を展開することです。「アソシエイティヴに生きることを学ぶ。」これが日常生活世界でも鍵になっているのです。

電子メディアとアソシエーション

 電子メディアを中心とした情報化の画期的発達は人類史にとってどのような意味をもつのでしょうか。電報、電話、ラジオからはじまった電子メディアは、テレビというマス・メディアの普及とともに人々の知的世界や生活世界を激変させました。パソコンの普及に伴い、ネットワーク型メディアの展開がこれに続いております。電子メディアの功罪については多くが語られていますが、世界市民的な意識や運動の形成に果たした電子メディアの貢献にははかりしれないものがあります。とりわけインターネットは巨大メディアから事実上閉め出されてきた批判的活動的市民に、新しい可能性を与えていることはまちがいありません。 

 しかし権力による情報統制や商業主義的欲求操作と並んで、人間のもっとも基礎的なコミュニケーションである「対面コミュニケーション」の能力の空洞化というもう一つの深刻な問題が現出しております。身体的に向かい合った状態で用件や信念や趣味を相互に伝え合い、共感したり、議論を通して問題を解決するという基礎的コミュニケーションの上にはじめて、電子メディアを含むさまざまな派生的コミュニケーションは意味をもつのです。コミュニケーションを生活世界から遊離させないためには、「対面コミュニケーション」の優先性を見失ってはなりません。

 ネットワークとアソシエーションの関係についても考えておく必要があるでしょう。まずはアソシエーションはネットワークを組み込まねばなりません。アソシエ間にも、アソシエーション間にもネットワークが不可欠です。昔の話になりますが、レーニン最晩年のネップ期におこなった「分派の禁止」は中心を通過しないアソシエ相互の自由なネットワークを禁じる情報統制であり、脱アソシエーション化の致命的一歩でした。

 しかしアソシエーションをネットワークに還元できるわけではありません。厳密な意味でのネットワークは中心(集中点)を持ちませんが、アソシエーションは合意にもとづく財や力の結合、総会や決定や協同行為という形で集中点を持たねばなりません。ネットワークだけで十分で、アソシエーションは不要だというのは幻想であると思います。対面コミュニケーションという基盤文化をしっかり再生産すること、アソシエイティヴな関係性に基本価値を据えること、そういう前提の上ではじめてネットワークは大きな価値を持つのです。

自由時間とアソシエーション

 日本におけるアソシエーション過程の停滞は、職業労働時間の長さにその一条件がありました。自治や公共事に時間を費やすより、既存の権力に同調・服属したほうが、時間も節約でき、私利も最大化できるという意識がこれに伴ったと思います。しかし自由時間の拡大とアソシエーション文化の相互促進的関係は歪んだ形ではありますが、日本でもすでに進行中と見なければならないでしょう。

 早くからアソシエーションの運動はクラブやカフェのような「社交的アソシエーション」の側面をもっています。現在でもイタリアでは各地に「人民の家」があり、これが左翼の文化拠点として機能していますが、「社交的アソシエーション」も「人民の家」の重要な機能の一つであるようです。日本でも「たまり場」などの試みが多くみられるようになりました。

 この問題を人類史的に反省してみるとどうでしょうか。資本主義の発達とともに、富(豊かさ)の基本形態は現物形態から貨幣形態に移りました。しかし現在、貨幣形態から自由時間形態に移行することが迫られていると思われます。地球環境の大崩壊を避ける意味でも、いずれ生産性上昇分を賃上げによってでなく、自由時間(労働時間の短縮)で分配しなければならないでしょう。ということはつまり物の購入消費ではなく、自由時間の協同消費に、つまり人間関係(社交)の豊かさに、富の重点をシフトさせねばならないということです。だから「社交的アソシエーション」は人類史にかかわる戦略的意味を持っているのです。

 人間の幸福感は、もちろん衣食住の基礎的な欲求の充足を前提にしての話ですが、アイデンティティーの自覚に負うところが大きいでしょう。しかしアイデンティティーの自覚は、自分が為したこと、作ったもの、自分の生きた人生を、他者が肯定的に認めてくれているんだと、私が自覚できるということに負っているのです。ところが消費人間はアイデンティティーを物件化してしまい、自分の為した行為や自分が生きた人生によってでなく、購買所持するモノや貨幣で他者の承認を空しく求めてしまうのです。「人間にとって最大の富は人間である」(マルクス)。豊かさのモデルチェンジが求められているのです。

思考様式の変革とアソシエーション

 アソシエーション過程は新しい思考様式という面からも注目されるべきでしょう。我々はアソシエーションへ加入することを通して、狭い日常世界を超えたより広い世界認識を獲得し、狭い習俗を超えた普遍妥当的世界市民モラルへ接近する。しかしアソシエーションがセクトへと退行すると、経験的認識を遮断し、外部を失い、独善的行為規範が忍び寄り、自閉の回路を循環することになります。

 従来、モラルについては比較的に固定的既成的なものとみなされ、もっぱら家族や国家が児童にモラルの「内面化」を促す組織とされてきました。しかし臓器移植、安楽死、遺伝子操作、選択的中絶など最近の例から了解されるように、今日では行為規範をめぐる社会的合意の形成過程が、その過程への諸個人の参画が、したがってまたモラル的ヘゲモニー集団の意味がきわめて重要になっているのです。

 科学的認識についても同様の事態があります。個人が先天的能力に基づき「確実な知」を獲得するという伝統的認識論は、いわば認識論的ロビンソン物語にとどまっておりました。トマス・クーンの「パラダイム」論はこの限界を批判するものとして注目されましたが、今日ではその中途半端さが批判され、「科学的知識の社会学」(エジンバラ学派)なるものも登場しています。もともとマルクスには科学的認識を一種の「普遍的労働」と見る観点があって、科学的認識の生産手段、生産組織、流通過程などへと展開できるスケールの大きな構想でした。理念的には反証可能性をルールに結合する学者のオープンな(実態的にはしばしば権威主義化し閉鎖的となった)アソシエーションが普遍労働のメインアクターでしょうが、知的生産への需要や知的生産物の流通も重要な要素として組み込まれるべきでしょう。このようにして科学的認識も権力、市場、共同体、アソシエーションといった社会の諸類型との関係性を問われなければならないのです。

社会主義とアソシエーション

 社会主義の再生は、上のようなアソシエーション過程の実践的普遍化と原理的深化の方向で構想されるべきだと私は考えます。この場合、アソシエーション過程を「過程論的に」考えること、つまり脱アソシエーション化の諸力を直視し、再アソシエーション化の力も働くような対抗的過程として考えることが必要でしょう。アソシエーション過程を促すために国家的法的手段を用いることも、原理主義的に拒むべきではないでしょう。またアソシエーショナルな変革はグラムシの言う陣地戦の形を取るほかないと思います。陣地戦を身近な例でイメージすれば創価学会などが新宗教版陣地戦として参考になるのではないでしょうか。主婦の日常的組織化、地域文化会館、国家機構への浸透、二重国家的世界像の形成などです。ただし信仰者の集団は帰依(主体性の放棄)を中心とするものです。一方我々が実践的に創出すべきは、「自由な個人性」が共同性と結合しうる社会形態としてのアソシエーション形態なのです。その点ではまったく参考にならないでしょうが。もちろん闘争や自己変革なしに、大衆による生活文化や政治文化の自己変革なしに、したがってグラムシの言う「知的モラル的改革」なしに、「歴史の必然」に期待を寄せるだけでは、アソシエーショナルな未来もないでしょう。