石堂清倫と21世紀の変革論

田畑 稔(季報『唯物論研究』編集長)

  以下は2001121日に東京有楽町の「東京国際フォーラム」で行なわれた「石堂清倫氏を偲ぶ会」での追悼講演である。市民セクター政策機構編『社会運動』第263号、20022月、に掲載された。

 石堂さんは私のもっとも尊敬する人で、いろいろアドバイスいただいたり、報告をさしあげたりしていました。「左翼の哲学者たちが小さく守りに入ってしまうのではなく、時代が提出している知的実践的課題や現代の哲学諸潮流が挑戦している問題に対して、生き生きした関心を示し、マルクス思想とそれら新しい思想や問題との生きた接点を明らかにすることによって、思想としての生命力を示してください。」これが石堂さんが私どもに発しつづけられた基本メッセージだったように思います。

 もっとも、私は大阪を拠点に活動しておりまして、直接お会いすることはほとんどなく、清瀬のお宅にも数度お邪魔しましただけです。一度などは私を別の誰かと間違って私にむかって話をされるので、非常に居心地が悪くて、石堂さんもついにボケられたかと思っていたら、そのうち「大阪の田畑さんがねェ」という話になったので()、 思わず汗が出たりしました。

 以前、石堂さんにインタビューしたことがあるのですが(季報『唯物論研究』第46/47号、1993年11月)、この時、自分の人生を振り返って「私は昔から一生懸命やるんですが、気がついてみるといつも外側にいて、中心に加わったことがないのです」と、そういう言い方をされるんですね。石堂さんの自己了解として非常に印象深い言葉でした。石堂さんは1904年から2001年まで激動の20世紀と人生をともにされたのですが、私の観察するところ石堂さんはこの時代を強い意味で知的に生きられた稀有の人であったように思います。知的な生き方というのは、一方で時代の課題と実践的に格闘するという面を持たないといけない。と同時に直接の実践からの距離感もバランスしていなければならない。グラムシがあれほどラジカルにそれまでの変革論を自己批判的に点検できたのは「獄中にもかかわらず」であったと同時に、「獄中だからこそ」であったとも言えます。そういうことで石堂さんのこの自己了解の言葉が非常に印象深かったのです。

石堂さんの知的恩恵

 私などは色々な意味で石堂さんの知的恩恵に大いに浴している世代ですが、大きく3つほどあげることができようかと思います。

 第1は、言うまでもなく、翻訳者、紹介者としての石堂清倫でしょう。スターリンの『弁証法的唯物論と史的唯物論』も石堂さんの翻訳だとご自身が書いておられますが、マルクス、エンゲルス、レーニン、グラムシ、それから我々が皆、たいへん衝撃的に読んだ、メドヴェーデフの『共産主義とは何か』などのソ連の地下出版物、西欧ニューレフトの新しい現代史研究や現代変革論など。戦後の左翼の人間で翻訳者・紹介者としての石堂さんの知的恩恵に浴していない人はほとんどいないと言ってよいでしょう。

 ところで翻訳者というのは、普通、1つの言語に特化するものですが、石堂さんは、ロシア語、イタリア語、英語、ドイツ語と、非常に幅広い翻訳領域を持っておられた。こういう例はまずないのではないかと思います。もう一つ、石堂さんは、ただ単に翻訳するだけではなくて、欧米の最新の刊行物や雑誌に目を向け、世界人として広い読書世界をもっておられた。言うは易し行うは難しで、推測ですが経済的にも時間的にも大変だったのではと思います。私も含めて、左翼の人たちの中には思い詰め型の偏狭な世界認識の人間が多いわけですけれども、石堂さんの場合、そういうものから解放されていた条件の一つとしてこういう広い読書世界があったのではと思います。

 第2はいわゆる「昭和史」や運動史の証言者、資料発掘紹介者、研究者としての石堂清倫です。戦前戦中の日本の政治リーダーや軍部の知的モラル的な低さ、左翼運動の未熟さが厳しく追跡され、そういう状況下で政治的に有効に生きるとはどういうことでなければならなかったのか追求されました。いわゆる専門的職業的な歴史家としてではなく、自分が20世紀を生き、目撃し、闘い、誤り、挫折し、再挑戦した、その生きざまを、主体的に総括しつつ物語る。石堂さんの運動史研究や「昭和史」研究は、「語り」としての歴史が本来持つ生きた力を感じさせ、何か知識を増やすだけではなくて、われわれの胸を打つものがありますね。

 第3に我々は思想家としての石堂清倫の恩恵に浴してもいます。思想家としての石堂さんの中心には、20世紀の共産主義と社会主義を圧倒的に支配したスターリニズムを、グラムシの思想(「市民社会」「陣地戦」「知的モラル的ヘゲモニー」など)を支えに、自己批判的に総括し、運動を現代的に再生させようとする努力がありました。我々が学生時代に読んだ『現代変革の理論』(1962年)から今年刊行の『20世紀の意味』まで、この基調はほとんど変わらなかったのではないでしょうか。石堂さんが今日、多くの人々から敬愛されている理由は、彼が高齢になってからも活躍し続けたということにでなく、なによりも彼のこの思想家としての先見性と一貫性にあると言えるでしょう。戦後活躍した思想家には、外面はともかく、思想の内実においてすでに過去の人となった人が多いのに対して、石堂さんはソ連崩壊後もますます多くの人々によって受け入れられつつあり、その意味では今なお生命力を保持し続けている思想家であると言えるでしょう。

 

石堂清倫の21世紀変革論

 では、最晩年、石堂さんは21世紀の変革論をどう考えておられたのか。つまり石堂さんは未来に向かって我々にどんな闘いを呼びかけておられたのか。『20世紀の意味』を読みますと、「新しいアソシエーション」への着目、対抗ヘゲモニーとしての「非暴力の論理」、それに「日本国民の自己改造」、この3つが浮かび上がってきます。そしてこれらの根底にあるのは人類史的規模での「モラル改革の断行」ということでしょう。

 第1の「新しいアソシエーション」について見ますと、まずは国家権力を取って、その次に上から社会改造をやる、こういう変革論を脱皮しないとダメであるという問題意識があろうかと思います。上からではなく、生活の中から、市民社会の中から生まれる、生活者や従属諸集団の多様なアソシエーションが、対抗的な価値やモラルを掲げて陣地形成を行い、相互に提携して行く。こういう対抗ヘゲモニーの力で長い時間を掛けて、歴史的移行を促していかなければならない。もちろん今までにも協同組合、労働組合、各種非営利組織などアソシエーション運動はたくさんありました。しかしそれらはいわば脱アソシエーション化していくし、時代の状況に合わなくなってきた。だからアソシエーションの思想に基づいてリフレッシュしていく。アソシエーションとは本来どういうものであったかという「原点」に立ち戻って、自分たちを再構築していく。そういう意味もあったのではないかと思います。

 第2の「非暴力の論理」についてはどうでしょうか。9・11事件以降、われわれの非暴力の対抗ヘゲモニーというものが、国際的な規模でまさに真価を問われているわけです。こういう場合いつもそうですが、最初の局面では必ず主戦論が圧倒するでしょう。しかしわれわれはここでいわゆる「現実主義」になだれ込むのではなくて、二度の世界戦争や最終兵器の展開という事態を前に、一歩一歩構築されてきた対抗ヘゲモニーとしての「非暴力の論理」の歴史的展開力を巨視的に再確認しておかねばならなりません。石堂さんの「非暴力の論理」は、「政治-力」から「政治-倫理」への人類史的移行というグラムシの思想に支えられております。力や権力で人々が動き、動かすというあり方から、倫理や合意で動き動かす方向へと人類を一歩一歩変えて行かねばならない。あるいは自己変革していかねばならない。それを石堂さんは呼びかけていると思います。

 第3の呼びかけは「日本人の自己改造」ということです。日本の近代化は「復古-革命」としてはじまり、敗戦後の民主化も「受動革命」に終始しました。制度としての民主化はあっても、日本国民の自己改造としての民主化はまだできていません。当事者の厳しい自己反省として見れば、戦争をやめさせることができなかったし、天皇制をやめさせることもできなかったし、自前の民主化もできなかった。「国民的決済」がまだできていないのです。いわば適応矛盾の堆積として今日があるわけです。ここで日本の一般市民や一般民衆のレベルでの自己改造というものがなければ、東アジア諸国からの信頼も得られず、21世紀の課題である東アジアの真の地域統合もないでしょう。また合衆国のヘゲモニーに唯々諾々と追随しているあり方からの脱却もないでしょう。なぜならわれわれが合衆国のヘゲモニーの下にあるわけは、基本的には合衆国の政治や文化と日本のそれとのモラルの水準の落差に求めなければならないからなのです。

 こういう石堂さんの呼びかけの基本には「モラル改革」とか「モラル・ヘゲモニー」という信念があり、晩年になればなるほど、それが強く出たと思います。そうするとだいたい予想される反応は、それは道徳主義ではないかとか、倫理主義への後退ではないかという疑念です。しかし、私は哲学畑の人間ですから申しあげておきますと、現代の倫理学の考え方は「ステークホールダー(利害関係者)倫理学」というような考え方に傾いておりまして、こういう考え方にはひょっとするとグラムシの影響もあるのではないかと思われるぐらいなのです。

 一つの権力があれば、それは、人、物、カネ、情報を動かす権限を与えられているわけですから、責任も非常に重いけれども、濫用されたり暴走する危険性がある。これを倫理的にどうコントロールするか。昔なら権力当事者の「仁」なら「仁」という心がけに期待する。保守主義の得意な「ノーブレス・オブリージュ」(高貴な人間の責務)というやつですね。しかしこういう考え方は容易に偽善に転化しますね。だれだって邪な気持があるし、私利私欲に走りますし、誤りもする。だからむしろ権力当事者が利害関係者や利害関係諸集団に対して情報公開の義務を負い、説明責任を持ち、協議や合意を計って行かねばならないという形でモラル・コントロールを考えようということなのです。モラルの問題も徳目主義からコミュニケーション論やアソシエーション論やヘゲモニー論をベースにして再構築されつつあるのです。ですから逆にグラムシの「モラル・ヘゲモニー」という考え方、つまり倫理の政治化と政治の倫理化という考え方がかえって実現しつつあるという側面を見ておかねばならないのです。

「精神的再武装」                                  

 『20世紀の意味』には、「精神的再武装」という石堂さんらしからぬ強い言葉を用いている箇所があります。

 「今日情勢の激変に圧倒され、多くの人は解放運動の目標と方法について伝統的な理論で対応することができず、ある人は判断を中止し、ある人は自信喪失を公言し、進歩勢力全体が茫然としているとき、われわれはマルクスとグラムシのアソシエーション論をつうじて精神的再武装をとげ、来るべき世紀に立 ち向かうことができると言えます。」

 おそらくここで石堂さんは「精神的再武装」のもとに、第1にアソシエーション視点からのマルクス新解釈、第2にグラムシとアソシエーションというテーマの積極展開、そして第3にアソシエーション革命という新しい変革の可能性、この3つを想定しておられたのではないかと推測します。

マルクス新解釈

 マルクスは19世紀はもとより20世紀にも非常に大きな影響を与えた思想家ですが、彼の理論は、もっぱら疎外論、物象化論として、あるいは権力論、搾取論として、一言でいうと批判理論として解釈されてきました。資本主義は暴れ馬のようなもので合衆国のバブルも必ず崩壊するだろうとか、世界システムも両極化が進む限り、ああいうテロは避けられないだろう、と。グラムシにいわせれば、こういう決定論的思考はポジティブにヘゲモニーを争えない受動階級の特徴なのです。ネガティブにこの近代市民社会をどう批判するかというにとどまらず、ポジティブに何を対抗的につくりあげていくのか。もっと言えば何をわれわれは現につくりあげたのか。こういう目でマルクスを読み直すと、当然、アソシエーションという問題がクローズアップされてきます。

 ご存知のように『共産党宣言』の結論は「各人の自由な展開が 万人の自由な展開の条件であるようなひとつのアソシエーション」の歴史的生成ということでした。それだけではありません。『資本論』を読みますと「アソシエートした労働」、「アソシエートした生産様式」という言葉が未来社会のあり方を特徴づける言葉として用いられ、「アソシエートした知性」というような、ハーバーマスの「コミュニケーション的理性」などと非常に似通った言葉も出てきます。

 ところが「アソシエーション」は概念としては抹消されてきたとさえ言えるような現実がありました。例えば石堂さんも関係された『マルクス・エンゲルス全集』の大月版には、アソシエーションという言葉に何と20以上もの訳語が当てられているのです。それだけではありません。『共産党宣言』の中でマルクスは、「アソシエートした諸個人の手にすべての生産が集中すれば」と書いています。ところがマルクス死後に盟友エンゲルスの監修で出された英語版(これはおそらく世界でもっとも読まれた『宣言』だと言えましょうが)は「国民全体の巨大なアソシエーションの手にすべての生産が集中すれば」と内容上の根本修正を加えました。その英訳から堺利彦と幸徳秋水が日本で最初に『共産宣言』を翻訳したのですが、「一切の生産が全国民大協同の手に集中せられるに至れば」と訳してしまっています。どうして「アソシエートした諸個人」ではいけなかったのでしょうか。どうして「全国民大協同」になってしまったのでしょうか。こういう思想史的な反省が迫られています。マルクスの場合、共産主義というのは「自由な個人」の生成過程である。そういう視点がなければマルクスの理論は解けないですね。われわれが21世紀の変革論を構築する時にも、自立した個人をベースにした新しい共同性という、アソシエーション形態の問題をもう一度見直す必要があるのではないかと思います。

グラムシとアソシエーション

 グラムシについても、石堂さんをはじめ先達の努力のおかげで、「市民社会」、「ヘゲモニー」、「知的モラル的改革」、「陣地戦」、「国家の社会への再吸収」というような一連の概念が解明され、「マルクス・レーニン主義」を脱皮するための鍵概念として広く受容されております。しかしこういう一連の言葉の社会論的な内実は何であったのかが問われるべきでしょう。このようにして『獄中ノート』の中でアソシエーションはどう位置づけられているのかというういう問題に取り組まれているのです。『獄中ノート』第一ノートの47節にはこうあります。

 「国家は同意を有し、同意を要求するが、しかしまたこの同意に向けて、政治的な、そして組合的な諸アソシエーションを介して「教育」しもする。ところがこれらアソシエーションは私的な組織、指導階級の私的イニシャティブに委ねられた組織なのである。」

 国家というものは強制によって社会を総括している面と合意によって社会を総括している面がある。合意の面でいうと、公的組織ではなくて、民間の諸アソシエーションが市民を合意に至らせる教育者の役割を果たしているのです。これを逆から、つまり対抗ヘゲモニーの側から考えると、サバルタン(従属集団)が新しい価値や新しいモラルを対抗させる場合も、単に言葉だけで対抗しているのではなく、新しい価値やモラルにもとづくアソシエーションを実践的につくっていく。そういうものを介して社会改造が進んでいく。こうグラムシは認識していたのです(第25ノート第5節)。つまりグラムシの言う「知的・モラル的ヘゲモニー」と対抗的アソシエーションとは一体のものであったと考えるべきでしょう。

「アソシエーション革命」

 21世紀の現実はどうなのでしょうか。日本では最近「空白の10年」と言われておりますが、80年代半ば以降ヘゲモニー危機がずっと続いております。では、国家主義やナショナリズムで21世紀日本を語れるのでしょうか。あるいは家族主義で21世紀の日本を語れるでしょうか。それとも、いま景気が悪いですけれども、もうちょっと辛抱したら、会社主義が復活して、また会社が市民を丸抱えしてくれるのでしょうか。もう国家主義やナショナリズムや家族主義や会社主義は歴史的に力を使い果たしております。だれも本気で期待しておりません。それではわれわれの未来を語る場合、あとに残されているのは何でしょうか。それは市民が横にアソシエートし合うことです。そういうアソシエーションの持つ潜勢力は、とくに日本ではまだほとんど本格的に発揮されておりません。

 現在、「アソシエーションの波」がいろいろな文脈で語られています。

 まずイギリスの政治学者ポール・ハーストの言う「アソシエイティブ・デモクラシー」です。20世紀には西側でも東側でも国家が肥大化しました。日本もそうですね。そこで民営化が言われる。しかし民営化といったら新自由主義のイデオロギーで古い資本主義に戻ろうとするんです。そうではなく市民の非営利組織が公共性を大幅に担っていく形で、肥大化した国家を克服して行く過程が一方では進んでいることを忘れてはなりません。

 あるいは、フォーディズムが終焉して失業問題が深刻化している。未来産業と言われるものは家電や自動車のような大量の雇用を生む力は持っておりません。ヒューマン・インターフェース領域やサービス領域を中心に協同労働を自分たちで組織化し、新しい職場をつくり、自己統治をしていく時代が、いよいよやってきているのではないでしょうか。

 日常生活世界を見ますと、家族はたいへん痩せ細ってしまい、地域社会や子供社会も解体情況を呈し、問題が噴出しています。あるいはストレス性の未来病がこれから不可避的に増えるでしょう。それらに対してどうしたらいいのか。物を買えば解決するのでしょうか。薬を飲めば治るのでしょうか。父性の復権を叫べばよいのでしょうか。やはり、人と人との関係性という原点に立ち戻って、子育てネットやセルフヘルプ・グループなど日常生活世界の中にもアソシエーションの諸形態を本格展開する以外に道は残っていないのではないですか。

 あるいは、外交が中央政府の独占であった時代は、もう終わっています。NGOのような世界市民的アソシエーションが、国境を越えて、対抗ヘゲモニーとして力を持ち始めていることも事実なのです。彼らは中央政府に対抗できるだけの知的ストックを持ち、国境を越えて結合し、偏狭な国益を批判しております。

 こういう「アソシエーションの波」の歴史的諸文脈の上に、社会主義の自己変革というものが重なり合っていくのです。いくら私が哲学畑の人間だからといって、マルクスやグラムシだけから、アソシエーションで行きましょうと、そんなナイーブなことを言っているわけではありません。むしろこういう新しい歴史的文脈の中で、マルクスやグラムシの読み直しも進んでいると考えるべきでしょう。

 「アソシエーション革命」という言葉は、合衆国の政治学者レスター・サラモンが20世紀末に見られたNPOの急激な広がりを表現するために用いた言葉です。私の場合は、この言葉をより未来志向的、包括的に用いておりまして、国民国家や市場経済の枠組みそのものの廃絶を前提しないものの、諸アソシエーションの力、アソシエイティブな諸関係がドミナントな(優越する)社会へと、現状を決定的に超え出るような社会変革の意味で用いたいと思っております。われわれが目指すべきは、単なる理念としてのアソシエーションなのではなく、対抗的アソシエーションとして実効性を持つ「タフなアソシエーション」であるのは言うまでもありません。

 「新しいアソシエーション」、「非暴力の論理」、それに「日本人の自己改造」という石堂さんのわれわれへの呼びかけに、積極的に応答することをお誓いして、私の報告を終わりたいと思います。どうもありがとうございました。(拍手)