協同労働とアソシエーション
田畑 稔(大阪経済大学人間科学部)
こんにちは。田畑でございます。本日はお招きいただきましてありがとうございます。私は哲学畑の人間で、具体的な実践に即して皆さんにおしゃべりできるような立場にはないのですが、実践の現場に少し距離をとることによって、協同労働の意味というものがかえって見えてくる面もあるのではないかという希望をもちまして、お話しさせていただきたいと思っております。長年アソシエーション論に取り組んでこられた佐藤慶幸さんの『NPOと市民社会――アソシエーション論の可能性』(有菱閣)という立派な本が、昨年出版されました。私たちも3年がかりの共同作業になりましたが今年の3月『アソシエーション革命へ――理論・構想・実践』(社会評論社)を出しました。これは、いわゆる思想史的な文脈ではなくて、あくまで基礎研究ではありますが、今の現実社会をどう変えていくのかという社会変革論の文脈でアソシエーションを考えてみようという趣旨で出したわけです。
1 「アソシエーション革命」という言葉
まず「アソシエーション革命」という言葉なのですが、2つの用例を紹介しておきたいと思います。第1はレスター・サラモンというアメリカの政治学者の場合です。日本でも紹介されておりますとおり、彼は5年に1度国際的な実態調査を行いまして、NPOがいかに20世紀の終わりに急速な拡大を見たかを確認し、それを根拠に「我々はグローバルなアソシエーション革命のただなかにあるのだ」という認識を提出しました。
「これらの現象の及ぶ範囲や規模は壮大なものである。確かに、われわれはグローバルな『アソシエーション革命』(a global"associational revolution")のただなかにあり、これは、国民国家の台頭が19世紀後半にたいして持ったと同じ重要な意義を20世紀末にたいしてもつ、ということが明らかになるかもしれない。最終目標は、ひとつのグローバルな第三セクターである。つまり、株主または取締役へ利益を分配することに専念するのでなく、国家の公式装置の外部で公共的諸目的を追求する、自己統治的な民間諸組織の巨大な隊列なのである。これら諸グループの増殖は、国家と市民のあいだの関係を永続的に変更するかもしれない。」
もうひとつの例はピース・ウインズ・ジャパンというNGOの大西健丞さんの議論です。鈴木宗男議員が「外務省の言うことを聞かんNGOなんか入れなくてもいい」と暴言をはきまして、逆に鈴木議員自身がつぶされました。市民の新しい力に対する古い政治家の鈍感さが見事に出た出来事でした。そのとき当の大西健丞さんは次のように新聞や週刊誌で書いております。
日本において大正デモクラシーの時代に「第一次結社(アソシエーション)革命」が行われ、そのときに政党とか、労働組合とかができた。ところが現代はNGOとかCSO(市民社会組織)が次々にできて、「第二次結社革命」が進行中なのだ。鈴木議員ら政権政党によるNGO排除というのは、「第一次結社革命」で生まれた政党とか労働組合、こういうものがいわば脱アソシエーション化して、権力に、政府機能に合体してしまって原点を失ってしまっていることを示すものであった。
こういう基本認識なのです。私なりにコメントしますと、アソシエーションの波というのは1回きりで押し寄せて、社会にどんでん返しを食らわせて、地獄の地上が天国に変わるというようなイメージでは全くございません。波は押し寄せたり引いたりするだろうと。また脱アソシエーション化して逆流することもありうると。そういうようなプロセスとして考える必要があるのではないか。逆から見れば、新しいアソシエーションをつくっていこうというだけではなくて、既にあるアソシエーションを、もう一度、原点に立ち返らせて、再アソシエーション化するような、一種の「アソシエーション・ルネッサンス」を行う。政党の原点は何だったのか、労働組合はどういう原点から出発したのか、こういうアソシエーションとしての原点を再確認する形で「アソシエーション・ルネッサンス」を断行するという課題にも直面しているのではないか。大西さんの話は大変示唆に富んでいると思われるのです。
さて、サラモン氏の「グローバルなアソシエーション革命」については、私たちは多くの認識を共有すると同時に、いくつかの重要な批判的留保をもっております。
第1点は、第三セクターの国際実態調査にさいして、彼らは協同組合の諸形態を除外している。これはヨーロッパの「社会的経済」などとの考え方の大きな対立点です。私たちは協同組合の諸形態とNPOの諸形態を両輪と見て「アソシエーション革命」を考えるべきではないかと思っております。
第2点は、「グローバルなアソシエーション革命」というときの「革命」の意味です。サラモン氏は量的に「急成長」したと。もちろんその背後には、アソシエイショナルに生きる新しい市民の政治文化の形成があるのですが、一応彼は「急成長」ということで「革命」という表現を使っているわけです。私の場合は、市場や国家を全面排除して考えているわけではもちろんありませんが、それらに対してアソシエーション型組織の力、アソシエイショナルな関係、アソシエイティヴな生き方が「ドミナント」であるような社会へ、社会のあり方を変革するという意味で「アソシエーション革命」という言葉を用いたいと思っております。「ドミナント」というのは主役を演じることです。国家が主であってそれを補完するような意味でアソシエーションがいろいろ活躍する、あるいは市場というものが圧倒優位で、それを円滑に動かすためにアソシエーションが脇役として必要だということではなくて、アソシエーション諸運動というものがむしろ主人公になって、優位に立って、国家も市場もコントロールされるというような社会へ変える。こういう未来志向的な意味で「アソシエーション革命」という言葉を理解したい。
もちろん、果たしてそういう「革命」に現実味があるのかどうか、自分たちの幻想を対置しているのにすぎないのではないかという難しい問題もかかえ込みますが、現存社会を21世紀にどう変えていくのかという問題意識でアソシエーションの問題を考えようというのが、私たちの趣旨であったわけです。
2 押し寄せるアソシエーションの波
図を見ていただけますか(このあたりに資料18ページ下段の図を入れてください)。現在の基本システムとしては世界規模で繋がる市場があり、株式会社という経営システムがあり、国家は主として国民国家として中央と地方に多元化されて編成され、地域には地域社会があり、家族を中心とした親密圏があります。ところがこれらはそれぞれに深刻な問題をかかえており、それらそれぞれにいわば絡む形で、さまざまなアソシエーションの波が押し寄せているのではないか。偶然たまたまというより、やはりサラモンの言う「アソシエーション革命」のような歴史の動きとして統一的にとらえるという視点が必要なのではないかと思われるのです。アソシエーションの多様な形のひとつひとつについてここで説明しませんけれど、こういう動きが顕在化してくる背景にあるいくつかの歴史的文脈に注目するべきでしょう。
(1)近代主権国家の再編成という文脈
20世紀は国家集権主義の時代であったと言えるかと思います。帝国主義戦争に伴う戦時体制はもちろんのこと、ソビエト型国家集権主義、ヨーロッパの福祉国家、日本の官僚統制システム、それぞれ意味はちがいますが、中央政府が質的量的に極めて肥大した。現在では一方で国家財政の破綻がおこり、他方で「グローバル化」や地域化が進んでいる。官僚の実質支配と市民の政治的無関心が悪循環し、公的サービスと市民のニーズのギャップが非常に大きくなってしまっております。政権担当者は新自由主義的国家リストラコースを出してくる。これに対するオールタナティヴが「アソシエイティブ・デモクラシー」なのです。これは、残念ながら最近若くして死にましたイギリスの政治学者ポール・ハーストの提唱ですが、コミュニティーとアソシエーションに公権力が大幅に権限を委譲し、参加型で社会を運営する構想です。ぜひこういう構想を日本でも実践的争点にまで高めたいものです。
(2)ポスト・フォーディズム経済と協同労働による職場創出という文脈
ポスト・フォーディズム経済にかかわって、協同労働がクローズアップされてきています。生産性が上がる、生産性準拠で賃金も上がる、労働者も月賦で車を買える、需要が伸びる、大量生産ができる、生産性がまた上がる。これが成長経済を支えたいわゆるフォーディズム的好循環といわれるものです。アメリカでは第二次世界戦争の前から、日本やヨーロッパでは戦後に実現しました。この好循環はしかし終わったのです。それ以降がポスト・フォーディズムと言われている。世界規模で巨大資本の再編成が進行中ですが、会社はもはや会社人間として市民を丸かかえする力を失い、逆に失業問題が深刻化している。未来型産業といわれるものは、家電とか自動車のような雇用創出力をもっていないのです。ところが地域密着型の対人サーヴィス(「ヒューマン・インターフェース」)のニーズが非常に拡大してきている。地域経済へ着目するというのは、同時に資源循環型の経済システムという観点からも、あるいはオールタナティヴの生活をどうつくっていくかという観点からも問われてくる。こういう背景から、協同労働というものを市民自身が積極的に組織化していくという歴史的回答が実践的に出てきているのです。
(3)経営権力のモラル・コントロール
協同労働を実践的に組織化するといっても、それがただちに経済の主流になるというわけではありません。資本主義的な経営システムでは人、もの、金、情報を動かす権限を与えられた個人または集団により経営権力が行使されている。そういう権力をどうコントロールするかという形でアソシエーションの問題がクローズアップされてきています。私は昔『企業モラルを哲学する』(三一書房、1988年)という本を編集して出したのですが、このころはまだ企業モラルというのは、合衆国でこそ例のラルフネーダーなんかが頑張っていましたけれど、日本では類書が非常に少なかったものですから、結構注目されました。当時は、ビジネスというのはモラルと無関係だという風潮が非常に強かったわけです。しかし今日では「ステイクホールダー(利害関係者)ビジネス倫理」という考え方が普通に語られております。つまり経営権力の行使に影響されるさまざまな利害関係者に対して、経営側の公開責任、説明責任、交渉責任をもたせる形で、経営権力のモラルコントロールを行う必要があると。消費者団体、地域団体、労働組合、それから未来世代、こういった「ステイクホールダー」それぞれがアソシエーションをつくって交渉し、経営権力をモラル的にコントロールしていくと。昔はたとえば松下幸之助という人が「経営者はこうでなければならない」と経営者の徳目を語った。しかしそういう徳目主義は偽善に転化します。倫理学も徳目主義からコミュニケーション文化に移りつつあるのです。アソシエーションという、市民が自発的に横につながる文化がモラルの領域でも不可欠になってきております。
(4)世界市民的な意識と運動の台頭
先ほど大西健丞さんの話をいたしましたが、従来は国境を超えますと、もう中央政府の独断場であったわけです。しかし今、反戦や軍縮の問題、人道支援、人権などでNGOが活躍し、国際舞台が中央政府の独占の場でなくなりつつある。NGOは理念だけで素手で国民国家中央政府と対抗しているのではなくて、国連なり、EUなりの国際的な機関をある程度味方につけたり、中央政府間の分岐を利用したり、世界市民のネットワークを形成して専門的知識や情報も蓄積したり、中央政府のパートナーとして働いたりして、実績を積み重ねてきています。情念としてナショナリズムに惹かれる人は今の若者にもたくさんいますけれど、じゃあナショナリズムで日本の21世紀の展望がたつかと正面から考えると、まったくたたない。
21世紀を展望しますと、あまり楽観視できないシナリオが多く語られております。20世紀の初めの地球人口が15億、終わりが61億というように人口爆発があったのです。国連の人口推計はエイズが蔓延しているので21世紀半ばで87億に下方修正されましたが、人口爆発が今も続いているのです。21世紀の半ばまでにはかなり激しい気象変動も進む予想で、今の若い人の晩年にはかなりの人間が食糧や生活の場を失って難民化し移動するのではないかとされております。しかも国境を超えた世界の秩序というのはまだ十全には構築されておりませんから、そういう状況では再び戦争の時代に移るのではないか。その上、大量破壊兵器の拡散もあって、かなり大規模の相互殺戮になるだろう。こういう見通しが語られる場合が多いですね。もちろん未来予測は災厄を避けるためにやるのですから、運命視する必要はありませんが、楽観視もできませんよね。こういう点からも、やはり世界市民的な運動を画期的に強化し、世界市民的民主主義を制度的にも裏づけていく努力が21世紀の基本展望にかかわる重大事となっているのです。
(5)家族および近隣社会の危機への処方箋
それから家族及び近隣社会がかなり空洞化している。かつてのような家業を基にした職住一体の社会ですと、家庭や地域社会という場は子育ての場だけではなくて仕事場であり、お父さんやお母さんは親方でもあり、先生でもある。ところが近代になると我々の生活基盤は労働市場に移ってしまう。つまり仕事の部分は労働力を買ってくれる場所、通勤したり単身赴任していく職場へ出ていく。先生の部分は学校へ出ていく。それから出産の場、死ぬ場、これは病院へ出ていく。家族に何が残ったのか。愛情が残り、労働力の再生産が残り、商品の消費が残った。近隣社会を構築・維持する共同活動はお金にならないのできり縮められる。近隣社会や家族の空洞化というのは構造的なものです。昔の農民たちにとっては、家はファミリーだけではなくてファクトリーである。水や山の管理といっても個別の農家ではできないから、当然協同労働が要請される。そういう形で実態があったわけです。
今、家族がピンチで「親がだらしないから」とか「父親がしっかりしないから」という家族保守主義の主張をよく聞きます。けれども家族保守主義というのは単に悲鳴にすぎません。危機に対処する方策を語っているのではなく、それ自身が危機の現象にすぎません。協同労働や職住一体やコミュニティー・ビジネスというものを実態としてつくり上げていくことが歴史の順序として必要になってきているのです。また家族は昔のようなトラブル解決能力をもっておりませんから、いわば「共同苦悩のアソシエーション」とでも言うべき「セルフヘルプ・グループ」(アルコール中毒患者の妻たちのシェルターづくりなど)とか、少子化で相互孤立する家族をつなぐ「子育てネットワーク」とか、コミュニティーの実態を構築するような新しい人と人とのつながりをつくり上げていくことが不可欠なのです。このように家族及び近隣社会の空洞化に対処するうえでも、アソシエーションが不可欠になってきております。
(6)社会主義の再生という文脈
20世紀を振り返りますと、歴史の3つの主役が帝国主義戦争とソビエト型社会主義とフォーディズム経済(大量生産、大量消費)だったと言えるでしょう。ソビエト型社会主義はどこがだめだったのか。皆さんもいろんな議論をされたと思いますが、この文脈で私として強調したいのは、ソビエト型社会主義は市場に負けただけではなくて、アソシエーションにも負けたということです。確かにソ連型社会主義の末期には、市場とか強いマルクとか豊かな西ドイツ、こういうものが前面に出て大衆の心が離反していった。しかしアソシエーションに負けたという面も忘れてはならない。ソビエト型の社会主義が成立していくプロセスで「アソシエーション(結社)の権利」、市民が自分たちの目的を実現するために、自発的に結合し自治的に運営するという、我々のこの基本的な権利が切り縮められていき、残念ながらソビエト社会主義体制では実態としては「アソシエーションの自由」は存在しなかったわけです。反乱が生じたときにアソシエーション型の反乱になっていくのですが、アソシエーションを作ること自身がすでに反乱だったのです。中国の民主化というときにいつも自由選挙の話になりますけれども、私としてはアソシエーションの自由も忘れないでと言いたい。中国でも労働者の失業問題がものすごく深刻なわけです。公認の労働組合しかないということでは、はたして労働者は自分たちの利益を守ることができるのでしょうか。
19世紀の社会主義というのはアソシエーション型の社会主義でありまして、マルクスまでそういう流れがつづいているわけです。マルクスでは48年から50年代初頭については、過渡期の実践的方策に極度の国家集権主義が見られます。これは1848年のドイツ革命の性格が関係するのです。しかし彼の60年代、70年代の未来展望は、経済は協同組合連合、政治はコミューン連合といったものだったと思われます。彼が関与した国際労働者アソシエーションの運動も、労働組合、労働者協同組合、チャーティズム運動、労働者教育運動などアソシエーション型の運動だったのです。
3 トクビルとグラムシのアソシエーション論
(1)トクビルと「相互にアソシエートする術」
トクビル(1805-59)という人はマルクスと同時代人のフランスの政治家であり、政治家をやめさせられた後は歴史家として活躍しました。彼の名著で『アメリカの民主政治』とい本がありまして、ここでアソシエーションについての古典的な見解が語られております。
「人々が文明人としてとどまり、また文明人となるためには、人々の間で諸条件の平等が増大するに正比例して、相互にアソシエートする術(the art of associating together)が成長し向上しなければならない。これは人間社会を支配する法則のひとつである。」
「お互いにアソシエートする術」、理論とか思想じゃなくて、そういう「術」「技」を身につけないと近代人は危ないですよということです。前近代社会では個人が裸で出てくるわけじゃない。村落とか職人組合とか自治都市とか、そういう伝統的な中間集団に分厚く守られて我々は生きてきた。王権など大きな権力は直接個人を支配するのでなく中間集団の上に天蓋をかける形で支配していた。ところがこの中間集団が、近代の主権国家ができ上がる過程で解体していきます。個人が目的存在として立ちあらわれてくるというのは、近代の大成果なのですが、個人は裸になっているわけです。しかも近代人は裸になると同時に協業を発展させ、社会的な諸力を全面的に組織します。諸個人が「アソシエートする術」を喪失し、国家に依存し、国家がアソシエーションに代替する過程が進むと、それに応じて国家の強大化と個人の無力化が悪循環して、王権の濫用、多数者の専制、行政による産業統制や知的道徳的統制を不可避としてしまうんだ。こうトクビルは書いております。まさにソビエトではそうなった。最初からそうだったわけではないが、一歩一歩牙城が崩されて、結局スターリン体制のようなものになったわけです。あるいは今の日本のように「お互いにアソシエートするという術」を身につけないと、金儲けのための欲求操作にやられますよと言い換えることもできましょう。これは20世紀の非常に大きな教訓だった。
(2)グラムシと対抗的アソシエーション
しかし私として強調したいのは、縦軸の中間集団論だけではなく、横軸の中間集団論も必要だということです。それがグラムシ(1891-1937)というイタリアの思想家のアソシエーション論です。
「統治されるものの同意を伴った統治(政府)。ただし選挙の時期に表明されるような一般的で漠然とした同意でなく、組織された同意を伴った統治。つまり国家は同意を有し、同意を要求するが、しかしまたこの同意に向けて、政治的な、そして組合的な諸アソシエーションによって『教育』しもするのである。ところがこれら諸アソシエーションは私的な組織、指導階級の私的イニシャティヴに委ねられた組織なのである。」
これがいわゆる横軸の問題ですね。グラムシの考えでは、国家というのは、中央政府の行政や強制の機構とか、憲法体制とか、法体系とか、そういうものだけで成立しているわけではありません。学校とか教会とか職業団体といった民間のアソシエーションが市民社会のなかで、「人間はこういうふうに生きるべきですよ」、「これが正しい女の道ですよ」、「善良な市民はこうでなければなりませんよ」ということを日々教育し、民衆の同意を獲得していく。これが「市民社会でのヘゲモニー」とされる事態です。
逆からみれば、新しい未来を主張するような勢力とか、グラムシの言うサバルタン(従属諸集団)のような今日の社会では自分たちの声が届かない、社会的に抑圧されている集団は、支配集団のヘゲモニーに自分たちの対抗ヘゲモニーを対置して、ヘゲモニー争いにチャレンジしていかないといけません。その対抗ヘゲモニーというのは言葉だけで闘うのではなく、現実に対抗的アソシエーションをつくって、人や能力やお金や知恵や術や技、そういうものを結集していかないとだめです。それをグラムシは「陣地戦」と言ったわけです。対抗的陣地をつくっていく、そして非常に長い時間をかけて新しい価値、新しい生き方、新しい自己統治のあり方をつくり上げていく。したがってアソシエーションと個人及び国家との関係でいいますと、横軸と縦軸の両面、これをクロスさせて考えていく必要があるのです。
実はグラムシは、いわゆるソビエト型の革命がヨーロッパでどうして負けたかという総括でこういう自覚に達したのです。後進国のロシアでは市民社会の構築がなく、中央政府だけがあって、これをぶっ飛ばしたら権力が転がり込んできた。ところが西欧では、中央政府をぶっ飛ばしても、教会があり、学校があり、職業団体があり、こういうものに逆にぶっ飛ばされたわけですね。
今、日本の未来は見えませんよね。つまり「失われた10年」と言いますが、10年どころの騒ぎじゃない。「若者は何考えているかわからん」と無責任に言っていますが、若者じゃなくて、日本人全体が失速状態になっている。「構造改革」というのは昔イタリアのマルクス主義者が言っていた言葉なんですが、小泉さんは言葉だけとっていますけれども中身がない。現状は一種のヘゲモニー危機なわけです。人々に語りかけて、動機づけて、頑張りましょうと。例えば「会社主義」は50年代半ば以降、勝ったわけでしょう。我々の世代で見れば、学生運動は相当の力を発揮しましたが、「会社主義」に完全に負けたわけです。しかし今若者に語りかけて「これで行きましょう」って何かもっていますか。皆さんならおもちだと思うのです。地域の再建とか、失業問題に対処する協同労働だとか、あるいは持続可能な経済だとか、これに今の体制が邪魔をしていると。
4 民主主義とアソシエーション
皆さんは民主主義とアソシエーションはどう関連するかという問題についてもきっと関心をおもちだろうと思います。民主主義を一票民主主義に空洞化させない。それから政治的無関心。多くの日本の市民は政治家の悪口を言って終わりと。これではやっぱりどうしようもない。こういう今日の空洞化に対して、アソシエイテヴ・デモクラシーははっきりした対抗案を提出しております。
(このあたりに31頁下段の図を入れてください)。この図では現存システムを政治システム、経済システム、そして親密圏に区分し、真ん中に市民が議論をとおして相互調整しあう関係(いわゆる市民社会)を置いてあります。市民がいろんな問題をかかえて、それを解決するために、お金とか知恵とか労力も持ち寄る形で自発的に横につながり、自治的に運営するアソシエーションは、この市民社会に属する組織です。アソシエーションは、経済システム(市場や私企業)との関係では協同組合のような経済的アソシエーション。政治システムとの関係では政治的アソシエーション。人権運動とか、NGOとか、政党(20世紀の後半の例でいうと緑の党、生活クラブでいうとローカル・パーティー、ほかの政党は第一次アソシエーション革命時にできあがった)。それから親密圏との関係では生活的アソシエーション。日常生活世界でいろんな危機をクリアするための子育てネットとか、セルフヘルプ・グループのような、生活の場に即したアソシエーション。こういうものをとおして我々は協議と合意と自治の文化をドミナント(優越的、主役的)なものにしようとしているわけです。
民主主義というのは今までは議会とか行政に対するチェック、あるいは正統性の付与というところで考えられました。しかし経済システムに対する民主的コントロール、先ほど申しましたステイクホールダーのアソシエーションによる経営権力のモラル・コントロールは「経済デモクラシー」の問題になってきます。それから「悪いのは市場と会社と国家であって、家族はみんな仲良しだ、というのは嘘だ」ということをフェミニズムはつきつけている。日常生活世界や、親密圏のなかにもやはり権力支配や暴力があり、「生活民主主義」というような形で民主主義を拡大していかねばならない。また政治領域でも公権力はアソシエーションやコミュニティーに多くの権限を委譲し、参加と自己決定のチャンスを拡大していかねばならない。いずれの場合も、1票の民主主義というのではなくて、情報公開し、説明責任を果たし、協議する。そういうコミュニケーション型のプロセス重視の民主主義です。もちろん最後には行動統一原理として1票を投じて協同行動をしましょうということです。
この経済的アソシエーション、政治的アソシエーション、生活的アソシエーションは、しかし純粋アソシエーションではなく、システムとの中間に組織されることによって媒介的役割を果たさねばならないわけで、経済的アソシエーションは、市場とか経営権力とか利益追求とか経営合理性という問題に交わるし、政治的アソシエーションは公権力や官僚システムや腐敗と交わり、それから生活的アソシエーションというと、これは親密圏で機能している調整原理である愛情と交わるのです。愛情には他者を理想化したり自分を浄化させる積極面もありますが、逆に非常に閉鎖的で偏愛とか溺愛とか嫉妬といったマイナス面もあります。そういう部分を背負いながらいろんなアソシエーションが組織されています。だから脱アソシエーションの力も強く働く。再アソシエーション化する民主主義の力を再生産することも必要になります。
5 経済セクターとしてのアソシエーション
経済セクターとしてのアソシエーションについてですが、合衆国のサラモン氏やEUのドゥルフニ氏らによる実態調査については皆さんお詳しいと思いますのではしょり、若干の議論のみ紹介しておきます。
第1は北ドイツ協同組合同盟のアイゼン氏によるレスター・サラモン氏への批判です。彼は「調整の機能原理」は国家では「位階制」、市場では「競争」、第三セクター(アソシエーション・セクター)では「協働co-operation」であると区分、「調整の基本価値」は国家では「平等」、市場では「自由」、そして第三セクターでは「連帯」であると区分します。そしてこの「連帯」はNPOのような「利他主義的連帯」と協同組合のような「自助的連帯」に下位区分されるのです。サラモン氏は「自助的連帯」を除外する点で誤っていると主張しております。
もう一つ。公共的な機能を民間団体が果たすというNPOと、自助的連帯をめざす協同組合、この2つが今まで分けられてきました。けれどもドウフルニ氏たちは、EUの実態調査をした結果、この2つの性格を合わせもつ「社会企業」と命名すべき新しい第三のカテゴリーが必要になってきたと指摘しております。これは消費協同組合ではなくてワーカーズ・コープの性格のほうに強くシフトし、かつまたアドボケーション型の人権団体とか平和団体、婦人団体のNPOではなくて、生産を志向するNPOの方向にシフトしつつ、2つの性格をあわせもっている。
アソシエーションといえども当然、社会的ニーズに変動があり、社会的リソースに変動がある以上、これらを歴史的にその都度創造的に結び合わせていくような、そういうイニシアティブはいつも問われてきます。そういう意味で「社会企業」という、NPOや協同組合に次ぐ第3のカテゴリーにも注意を向けておく必要があろうかと思われます。
6 実践的方策の議論にむけて
時間が来ましたので、「実践的方策の議論」に移ります。アソシエーションの波が押し寄せてきているというのはそれなりの客観的な理由があるのであって、過大評価はできないけれども、過少評価もできないだろうと思います。
我々の出発点としてはまずはアクションを起こすと。そこから始まる。往々にして日本の政治文化の特色といわれる、政府とか会社の悪口を言ってそれで終わるという悪弊がある。こういうのは受動性の政治文化です。資本主義はいずれ崩壊するのだと言って、それで済していたのではもうどうしようもないわけです。まずは自分たちに何ができるかを議論して、対抗的アソシエーションをつくるという方向でアクションを起こすこと、そこがやっぱり出発点になるんじゃないか。そういう意味で新しい政治文化をつくり上げていく。そのためにはもちろんトクビルが言うように、「お互いにアソシエートしあう術」を身につけないといけない。あるいは私流の言い方で言うと「アソシエイティヴに生きることを学ぶ」必要がある。
それから20世紀に肥大した中央政府がリストラの局面に来ている。おそらくこのプロセスはローカル、ナショナル、リージョナル、グローバルの諸レベルでの政治秩序の再編過程に連動していると思われます。新自由主義に対して、昔の大きな福祉国家を対置するというだけではやはり答えにならないでしょう。オールタナティヴな民営化路線として一方で協同労働を組織化し、他方で中央政府に過大に集積した権限をコミュニティーやアソシエーションに委譲していく。既得権益がありますからもちろん闘いとらないといけない。
それから今日の到達点をどう了解するかの問題です。私としては、先進例や先進地域では、アソシエーション運動が立体化し、それを通して地域化するというところまでは、日本においても到達しているのではないかと考えます。欧米と異なり、日本では、受動的な市民しかいないのだから何もできないとよく言われるのですが、それは現実に合っていない。社会運動をやる、協同組合的なネットワークをつくる、ローカル・パーティとか地域レベルで議会にも進出していく、あるいは市民大学とか市民銀行をつくっていく、こういうことをとおして当然運動が立体化していきますね。例えばフェミニズム運動からやっても、それは例えば協同組合とどう結びつくのかという形で運動が立体化していきます。立体化することによって地域コミュニティーの問題に重なり合ってくると。
先ほど申し上げたように、アソシエーションは国境も超えますし、地域を超えますけれど、同時に地域的な規模でひとつのコミュニティーを構築しないと、アソシエーションだけでは未来展望は出てこないと思うのです。そういう両輪でやっていかないといけないわけです。私なりに理解する限り、アソシエーション運動の先進例のそれぞれはまったく別の政治的経緯があり、全く別の政治運動の流れをくみながら、しかしある種の運動の論理は共通に働いていて、立体化と地域化という形で進んでいるのではないか。もちろんここで万々歳と言っているわけではなくて、ひとつの新しい課題がそこから出てくるわけですけれど、一応の達成が見られるのではないかと思われます。
それから政治的手段をどう活用するかという点については、昔から長い論争があります。私はあまり昔の論争にこだわる必要はないのじゃないかと思います。国家権力で上から社会を改造するという極論は排除しないといけないけれども、逆に一切政治に手をつけないというふうな古典的なアナーキズムもいかがなものかということです。国家というものや公権力というものをアソシエイティブ・デモクラシーの方向に向かって再編成していくプロセスを強力に促進しながら、社会の自己改造のための補助的手段としての国家的、政治的手段を我々は堂々とこなしていく、そういう姿勢をとらないといけないのではないでしょうか。協同労働でも法的な障害を除去する措置を要求し、改善を部分的にでも勝ち取らないといけないわけです。
ただ、対抗的なアソシエーションは往々にしてシングルイッシューですから、タコツボ化する傾向があるわけですね。ネットワークを構築して、自らを有効な政治的力として表現しないといけないわけですが、果たしてアソシエーション運動が有効な政治力として自らを表現する形態というのはどうして構築できるのか。これはこれからの課題ではないかなと思います。どうもありがとうございました。(拍手)