生活者的知性とアソシエーション
――思想としての「アソシエーション革命」
田畑 稔(大阪経済大学人間科学部教授)
以下は2003年7月に新宿で開催された市民セクター政策機構主催の「アソシエーション・フォーラム」での報告で、同機構発行の『月刊社会運動』2004年3月号別冊『アソシエーションが主役の社会に―21世紀の市民社会を展望する』に掲載された。
私のアソシエーション論への取り組みは(1)マルクス「アソシエーション論」の再読からはじまり、(2)A・グラムシとアソシエーション論の結合の模索へと進み、(3)さらにアソシエーション論を現代日本の社会変革論として展開する(今年3月に共同研究『アソシエーション革命へ』を刊行)という形で、少しずつ進んでおります。(4)そして現在は生活者視点とアソシエーション論の結合を深めたいと「日常生活世界の哲学」に取り組んでおります。今日は、私自身のこういう取り組みの流れに沿いつつ、話していきたいと考えます。
T マルクス再読
20世紀の大事件といえば何といっても二度にわたる未曾有の帝国主義世界戦争があり、経済領域では「フォーディズム経済」という大量生産大量消費型成長経済の出現がありました。しかしもう一つ、対抗システムとしてのいわゆる「ソビエト型社会主義」の成立と大崩壊があげられるでしょう。今日、この側面を思想史的に総括するとすれば、必ず「アソシエーション」に向き合わざるをえないのです。80年代に入って私は、自分自身の思想的な軌跡もあり、「もう一度マルクスを読み直す」ことを始めました。このまとめが94年に出した『マルクスとアソシエーション』(新泉社)です。結論的に申しあげると、マルクスの思想の根幹にあったアソシエーション論は「ソビエト型社会主義」では事実上抹殺され続けたと言わざるをえないのです。
例えば大月書店から出ていたマルクス、エンゲルス全集の訳語の問題です。ここには、マルクスのAssoziationやassoziiert(associatedアソシエートした)になんと20以上もの訳語があてられております。それから「assoziiertな労働」と「kombiniertな労働」に同じ「結合した労働」という訳語があてられている。これは驚くべき混同です。つまり資本主義では協業が進みますからすべて「結合した労働」が基本です。ところが皆さんが生活協同組合などでやっている「アソシエートした労働」というのは自治と協働と共有に基づく未来型の労働のあり方であり、単なる「結合した労働」と全く異なるものです。
もうひとつは、マルクスの盟友エンゲルスが、マルクス死後かなり加筆修正を行ったことです。良く知られている『共産党宣言』の日本初訳は堺利彦と幸徳秋水が苦労して出したものですが、これもエンゲルスが監修した英語版でした。ここでは例えば「すべての生産がアソシエートした諸個人の手に集中すると」が「国民全体の巨大なassociationの手に集中すると」と書き直なおされているのです。なぜ「アソシエートした諸個人」ではいけないとエンゲルスは考えたのでしょうか。
『共産党宣言』の結語は「各人の自由な展開が万人の自由な展開の条件であるようなひとつのアソシエーションが出現する」となっています。アソシエーションでは各人の自由が万人の自由の条件なのです。当時のドイツ人の労働者共産主義の合言葉は「財産共同体」だったのですが、マルクスの加入とイニシアティブによって合言葉も「アソシエーション」に変わっているのです。
ところが『宣言』は過渡期の方策、つまり基本目標であるアソシエーション型社会へ移行するための中間的方策がきわめて国家集権的でした。48年から50年のはじめまでは、マルクス自身、ジャコバン独裁をモデルにヨーロッパ革命をイメージしていたからです。実はマルクスのこの時機のこの側面が、これ以降のロシア革命などに非常に大きな負の影響を与えたのです。
マルクス自身のアソシエーション論を時期的に整理すると、1845年から46年に書かれた『ドイチエ・イデオロギー』ででてくる「諸個人の連合化」論でその原型ができあがります。そして先ほど述べたように48年の『共産党宣言』は、一方でAssociationという基本目標をかかげながら、同時にドイツ三月革命などの関係で、極度に国家集権型の過渡期方策を主張したのです。実はレーニンが「社会民主労働党」という名称と決別するとき、わざわざ「共産党」という名を選択したのは、この47年から51年のマルクスの国家集権的過渡的方策に強く引かれたという側面があります。
ところが、その後のマルクスを追っかけていきますと、「イギリスのインド支配」(1853年)では、水の共同使用の必要が「西方」では「自発的アソシエーション」を促し、「東方」では「政府という集中させる権力の介入」促したとの東西対比を行っている。60年代には皆さんがご存知のように「国際労働者アソシエーション」に全面協力したわけですが、ここでは協同組合をきわめて積極的に評価し、同時期に書かれた「資本論 第3部」などでも未来社会の特徴づけとして「アソシエートした労働」「アソシエートした生産様式」「アソシエートした知性」といったキーワードが出てくるのです。
それから『フランスの内乱』(1871年)では未来社会は、今日風に言えば、アソシエーション連合+コミュニテイ連合として構想されています。「可能な共産主義」は「連合した協同組合諸団体が共同したプランに基づき全国的生産を調整する」システムなのです。
もちろんマルクスの中に、アソシエーション的なマルクスと国家集権論的なマルクスとの両面を見ることが出来るわけです。しかしこれまで「マルクスとアソシエーション」というテーマで語られたことの多くは、プルードンら同時代の社会主義者たちと比較した比較論、影響論にとどまっていた。マルクスの自身の理論の全体構成の中でアソシエーションがどういう核心的位置をしめているか。このもっとも肝心なことが抜けていたのです。
例えば、現代ドイツの哲学者ハーバーマスは、どちらかといえばマルクスの流れに立つ人ですが、次のように言っております。これまでの「理性」は自然や人間をどう加工するかの「道具的理性」に偏ってしまった。人間がお互いに議論して社会関係を調整していくという「相互行為」において働く理性、つまり「コミュニケーション的理性」の面が抜け落ちてしまった。これはマルクスについても言えると。
しかし、むしろこれは、ハーバーマスの世代のマルクスの読み方の限界だと思うのです。例えばマルクスの次のような「アソシエートした知性」に注目下さい。
「資本制的生産諸部門の内部では、均衡は不均衡から脱出する不断の過程としてしか自分を表さない。というのはそこでは生産の連関は、盲目的法則として生産者当事者たちに作用し、彼ら(生産当事者たち)が、アソシエートした知性として、その連関を共同のコントロールのもとに服属させていないからである。」
ここで「アソシエートした知性(Verstand)」と仮に訳したのですが、Verstandは哲学的な「理性(Vernunft)」とちがって、実際的理解力や判断力を指す言葉で、「生活者的知性」という意味が強いのですが、この「アソシエートした知性」はマルクスとハーバーマスをつなぐものであるだけでなく、実にわれわれの時代に直結した意味を持っているのではないかと考えます。その論理をたどってみましょう。
(a)権力、外化、物象化(物件化)、物化、疎外の論理
マルクスの理論は近代社会を根底的に批判する批判理論です。そのキーワードが「権力」、「外化」、「物象化(物件化)」、「物化」、「疎外」などと表現されます。相互孤立的に振舞う諸個人には、彼ら自身の連関や結合力が、外部の権力(権力者の力)として、物件の神秘な力(貨幣や資本の力)として、「自然法則」や「運命」として、外化形態をとって立ち現れるのです。例えばオーム教団では、信者の束ねられた力が麻原の権力として現れるのです。また土地自身は価値を作り出さないけれど、土地は「地代」を「生む」のが当然と誰でも思ってしまう。バブルは崩壊したが、いまだ日本の将来展望がたたない。まるで経済動向が如何ともしがたい「運命」「自然法則」のようなものとしてたち現れる。これらがマルクスの批判の論理です。では、こうした事態は、どのように解決されるのか。
(b)危機と破局の論理
ひとつは危機と破局ということです。「不均衡」や「外化」がある限度を超えると、「均衡」や「社会諸力」は諸個人を圧倒する暴力形態で発現します。経済恐慌しかり、地球レベルの環境破局しかり、全面核戦争しかりです。これも一つの解決形態なのですが、いわゆる「否定的弁証法」です。しかしマルクスはこれで終わっていない。もしこれで終わっていたらマルクスは大したことがなかったと思います。破局の必然を断言し、人間の愚かさを確認するだけでは、実践的には受動性に終始することになるからです。
(c)権力過程や物象化過程への対抗過程としてのアソシエーション過程
マルクスはポジティヴな解決形態も示しております。それがアソシエーション過程をこれに対抗させることであり、我々が「アソシエートした知性」として立ち現れることなのです。我々現代人は、一方で孤立しあって生活しながら、他方で「結合した労働」により巨大な社会的諸力を展開する。その結果、巨大な権力、巨大な資本の力という外化形態が構築される。逆に我々が相互孤立したあり方を克服し、結合された力を我々自身の共同の力として自覚的に組織し、コントロールするということです。当時の状況下では、実践的にはイギリスの協同組合や労働組合、瞬時に終わったパリ・コミューンなどにとどまったのですが、理論の構えとしては現代のわれわれに直接つながってくるのではないでしょうか。
例えば次のように自問してみればどうでしょう。「アソシエートした生活者的知性」とはどのようなコミュニュケーション的、認知的、価値判断的行為を指すのか。相互孤立的に生きる「生活者的知性」は、どのような中間諸形態を経て、「アソシエートした生活者的知性」に移行するのか。この場合当事者のどのような人格史的、歴史的、制度的条件が前提となるのか。
また佐藤慶幸さんの『アソシエーションの社会学』に学んだことですが、逆に「アソシエートした生活者的知性」は、どのような条件下で、どのような中間諸形態を経て脱アソシエーション化するのか。一旦成立した「アソシエートした生活者的知性」は、どうして再び相互孤立的になるのか。
これらは、わたしたちにまさに今現在、問われている問いであります。こうした普遍的な文脈においてマルクスを読み返すと、彼が極めて身近に見えて来るでしょう。何でもマルクスから読めるわけではありませんが、混沌とした時代におけるひとつのサーチライトとして、彼のアソシエーション論が大きな意味をもっているのではないでしょうか。
U グラムシとアソシエーション
マルクスのアソシエーション論を現代につなげるためには、もう一人、イタリアの思想家A・グラムシのふところを借りる必要があります。それで私の第2のステップは、グラムシとアソシエーションの関係を調べなおし、考えなおすことでした。私のアソシエーション研究も「ソ連型社会主義」の失敗を動機の一つとしていますが、グラムシも、ロシア革命を西欧に波及させようとしたいわゆる「ヨーロッパ革命」の敗北を体験し、「ソ連型社会主義」がなぜ失敗したのか、獄中で一生懸命考えた人です。
さて、アソシエーション論の古典というと、何といってもマルクスと同時代のフランスの歴史家トクビルの『アメリカの民主政治』があげられます。近代社会では諸個人は、伝統社会と違って、村落とか職人組合などの中間的集団に守られていない。近代人は、一方で分業や協業を発達させ国家を巨大化させるが、他方で諸個人は自由で平等になり、中間集団の覆いを持たない裸の個人として現れる。だから「互いにアソシエートする技(the art of associating together)」や「アソシエーションの学(the science of association)を身につけないといけない。下手をすると国家(王権や大衆の専制)に飲み込まれてしまう。こういうことを強調しているのです。これらのトクビルの指摘はまったく正しく、現に「アソシエーションの自由」が事実上否定され「相互にアソシエートする技」も抑圧されてしまった「ソ連型社会主義」で、彼の正しさは再び確証されたのです。しかしグラムシから言えば、半分しか正しくないのです。
「ヨーロッパ革命」の敗北についてのグラムシの認識はこうでした。ロシアでは政治権力というのは堅固な市民社会に支えられていない。市民社会が未形成で「ゼラチン状」だった。だから革命が勝利できた。ところが西欧では、支配集団は国家機構だけでなく、民間の諸団体、学校とか教会とか様様なアソシエーションをつくり、教育者として立ち現れて、支配的なモラル、生き方、価値への一般大衆の同意を再生産している。現実の国家は、政治社会プラス市民社会、強制プラス同意の全体で成り立っているのです。だから政治権力だけを吹き飛ばせばいいということではない。従属集団や社会変革を目指す側も、市民社会の中で対抗的なアソシエーションをつくり、対抗的なモラル、生き方、価値を対置して、同意を獲得しないとだめなのです。これが市民社会におけるヘゲモニーをめぐるたたかいなのです。これをグラムシは「知的モラル的改革」とも表現しています。
国家とアソシエーションの関係で言うと、国家と中間集団と個人という「縦軸」の問題だけでなく、支配集団と従属集団がそれぞれアソシエーションを組織し、市民社会でヘゲモニーを争うという「横軸」の問題にも着目しなければなりません。横軸の対抗性、従属と支配をめぐる緊張関係の中でアソシエーションが働くということを、グラムシは強調したのです。社会変革も、対抗的アソシエーションが相互に連携しつつ陣地を形成し、新しい対抗的モラル、価値、生活様式を普遍化し、長い時間をかけて社会変革に結び付けていかねばなりません。
この点で、マルクスのアソシエーション論を今日につなげるとすると、どうしてもグラムシを通過せざるを得ないのですが、「グラムシとアソシエーション」への取り組みは、従来のグラムシ研究では光が当たっていなかったグラムシ『獄中ノート』の自身におけるアソシエーション論の解明という作業(松田博『グラムシ研究の新展開』御茶ノ水書房、など)へ連動することにもなりました。
V 現代の社会変革論としてのアソシエーション論
私が第3のステップとして取り組んだのは、思想史的文脈にとどまらない、現代の社会変革論としてのアソシエーション論の展開ということです。あくまで基礎研究なのですが、今年3月に3年がかりの共同研究『アソシエーション革命へ――理論・構想・実践』(社会評論社)を出しました。
社会変革を語る以上、変革目標において優れていることが問われるだけでなく、目標を実現する主体的客体的条件の実在性が問われます。そこでまず、21世紀末以降、様々な形で押し寄せている「アソシエーションの波」の歴史的文脈を確認しておきましょう。
(1)近代主権国家の再編という文脈
まず20世紀に近代主権国家が異常に肥大化し、財政破綻や肥大した官僚システムの弊害が目に余りました。そこで新自由主義的な国家リストラ路線が出てくる。社会民主主義は「大きな政府」を守ると言う形でこれに対抗して負けていく。こういう中で「アソシエイティブ・デモクラシー」に注目が集まっております。国家が集積・集権してきた事業や権限を、市場に丸投げするのでなく、市民が非営利、自発、自治で営むアソシエーション(NPOなど)に権限を委譲し、事業をゆだねる方向で、再編するというコースです。これは市民が自発的に公共的機能を担う参加型民主主義の前進にもつながっております。こういう文脈の中で、グローバルな規模でNPセクターの台頭がみられ、ご存知の通り、合衆国の政治学者R・サラモンは「アソシエーション革命」という言葉を使ってこれを捉えているわけです。
(2) 地域経済と協同労働による雇用創出という文脈
もう一つ、フォーディズム経済の終わりということです。フォーディズム経済というのは、大量生産・大量消費・大量廃棄ということで、右肩上がりの成長経済のことです。アメリカではすでに戦前に、ヨーロッパや日本では戦後に進行しました。これが終わり、現在は「ポスト・フォーディズム経済」と言われております。一方で経済のグローバル化が進み、巨大な資本の合従連衡が続いています。しかし、いわゆる未来型産業はあまり雇用を生まず、かつての自動車や家電のように市民を会社主義で丸ごと抱え込むような力はありません。むしろ地域密着型で「顔の見える」サービスへのニーズが非常に強まっており、こういう事態を背景に、協同労働を組織化する方向で新しいニーズとリソースを結びつける動きが顕在化してきております。雇用創出を促すためにも、協同組合の法的整備が不可欠であるという認識も広く受け入れられつつあります。
(3)「モラルエコノミー」と「ステイクホルダー・ビジネス倫理」という文脈
資本主義企業のような巨大組織がはたしてアソシエーションによってコントロールできるのかという疑問がよく聞かれます。アソシエーションの力は、協同組合という形で協同労働を組織することだけに現れているわけではありません。今日では「ステイクホルダー・ビジネス倫理学」が語られております。つまり経営権力行使により影響を受けるステイクホールダー(利害関係者)が消費者団体、労働組合、地域の住民組織や市民の監査組織などのアソシエーションをつくり、経営権力はこれらに対する情報公開や説明責任や協議義務を負うという形で、経営権力のモラル・コントロールが図られるべきなのです。従来は経営権力行使者自身が責任の重さを自覚するといった「徳目主義」でやられてきました。しかしこういう「徳目主義」は容易に偽善に転化します。公開、説明、協議というコミュニュケーション型の権力コントロールが必要となっているのです。ここでもアソシエーションの運動の質が鍵を握っているのです。
(4)国境を超えた世界市民的な意識と運動の台頭という文脈
国際舞台でもNGOの力が強まり、国民国家中央政府の独占は打破されつつあります。世界規模で巨大な反戦行動が組織されるだけでなく、情報や専門知識を集積し、一国利害の狭さを批判し、政府間の分岐を利用し、国際条約締結を迫るなどの手段で、戦争責任の追及、兵器の制限、環境保護、人道支援などで実績をあげております。NGOもいろいろな問題を抱えており、過大評価はできませんが、世界市民的アソシエーション運動の歴史的前進という事実のなかに、人類の未来展望にもかかわる重大な意味を見ておかねばなりません。
(5)家族および近隣社会の危機への処方箋という文脈
家庭および近隣社会の危機への処方箋という文脈でもアソシエーションが注目されております。家庭、近隣社会、子供社会の空洞化がこの間急速に進みました。仕事場が家庭や近隣社会の外に出てしまった。昔はお父さんやお母さんは親方でもあり、仕事を子供に教える先生でもありました。今はお父さんが何をしているか分からない。教育は学校へ出てしまいました。家で教えることはありません。病院で生まれ、病院で死にますから、家は生まれる場所でも死ぬ場所でもない。家には愛情と労働力の再生産、そして商品消費が残された。収入のための労働に時間を優先して、近隣社会の共同性を再生産するための時間は極限的に削減されてしまっています。今度の九州の中学生による猟奇殺人事件でも、鴻池何某という大臣は「親がしっかりしないからだ」と言っております。家族保守主義者たちはそれを叫ぶことが解決策だと思っているのです。実質は「悲鳴」をあげているだけであって、ああいう悲鳴は「危機の現象」にすぎないということがわかっていないのです。子育てネットなどの生活的アソシエーション、セルフヘルプ・グループという共同苦悩のアソシエーション、協同労働を柱にした地域経済の再建など、現場にいろんなアソシエーションを無数に作って、空洞化した「共同性」を新しい基盤において再構築しないと展望を語りえないわけです。生活クラブの実践はこのことを先進的に示しております。
(6)社会主義の再生という文脈
19世紀の社会主義ではアソシエーションが合言葉であった。ところが20世紀というのはなんといっても国家集権主義の時代でありまして、「ソ連型社会主義」は極端な国家集権的抑圧システムで終わりました。社会民主主義も国家による再分配と福祉で成果をあげましたが、財政破綻があり、新自由主義的巻き返しに退潮を余儀なくされました。これらの教訓から社会主義のアソシエーション的伝統に立ち帰ろうとする動きが出てきたわけです。ひとつ申し上げたいのは「なぜソビエト型社会が負けたのか」ということです。市場経済に負けたという点で言えば、国家集権型の経済は、かえってある時期までは急成長を遂げることができた。それを過ぎると個人的な責任やイニシアチブを組織することができず急降下するわけです。しかし市場経済だけに負けたのか。むしろ市場にも負けたけれど、アソシエーションにも負けたと言わねばならないのではないか。例えばポーランドでは「連帯」の運動に負けたのです。ハンガリーでもチェコでも、ある意味で東独ですら、市民による自発的アソシエーションが「民主化」を担いました。ロシア革命はもちろん大衆規模での下からの創造的イニシャティブなしには起こり得なかったわけですが、スターリン体制が出来あがるプロセスで、色々な攻防があったものの、結局抑圧されてきました。そういう形で自らアソシエーションのウイングを切ってきたのです。そして末期には民主的な社会主義を求めた様様な反乱があったわけですが、それらはやはりアソシエーションによって担われたのです。色々な意味で「ソビエト型社会主義」はアソシエーションにも負けたと言うべきでしょう。
W アソシエーションが主役となる社会のあり方へ
レスター・サラモンというアメリカの政治学者は、5年ごとの国際的な実態調査にもとづいて、20世紀の末にNPOの急成長があったことを指摘し、これを「グローバルなアソシエーション革命」と表現しています。しかし彼の指摘にはいくつかの留保が必要であると考えています。まずこの実態調査では協同組合が除外されています。この点はヨーロッパのアソシエーション論とはまったく違います。実定法上の呼称や地位は国によって、時期によってさまざまでしょうが、社会理論的に見ると、自助・共助的である協同組合と利他的である非営利団体は、国家セクターや私的セクターと区別されるアソシエーション・セクターの下位区分として整理するのが妥当ではないでしょうか。
またわたしがどういう意味で「アソシエーション革命」という言葉を使うのかと言いますと、アソシエーションの量的「急増」という意味ではなく、アソシエーション的諸関係・諸部門・諸力が、国家や市場や営利的組織に対して「ドミナント(主役、優越的)」であるような社会のあり方へ社会を変革するということで使いたいと考えています。もちろんどういうプロセスを経てそうなるかということは区別して、アソシエーション革命そのものは、主役はどちらかという点での移行であるということです。したがって市場とか国家については、それらのあり方の非常に深刻な変革を求めますが、市場そのもの国家そのものをなくすといういことを求めておらず、ドミナンスを移すということです。
佐藤慶幸さんの新著『NPOと市民社会』(有斐閣)にはトクビルの調査したころの「アメリカはアソシエーション中心社会」であったと指摘されています。その通りだとすれば、少なくともアソシエーションがドミナントな社会は過去に実在していたわけです。佐藤さんは一方で、現代のドイツについて「アソシエーション中心社会対国家中心社会」という「二分法」で見るのはミスリーデリングであり、むしろアソシエーションと国家の適当なバランス、「補完関係」に注目すべきであると指摘しておられる。しかし「補完関係」を確認する場合でも「どちらが優勢(ドミナント)であるか」という実践的な問いは排除されないと私は考えます。ちなみに佐藤さんは別のところで「アソシエーションの文法に従いながら自己組織化をはかる」社会というような表現もしておられ、これなどは大いに参考になる。いづれにせよ「アソシエーションがドミナントな社会」は我々の実践を方向づける基本目標としては不断に掲げられるべきでしょうが、その具体的現実形態は実践の進展の中で回答されるべきでしょう。
具体的な実践的変革プログラムという点では、とりあえずは、イギリスの政治学者P・ハーストが1994年に出版した『アソシエティブ・デモクラシー』が参考になります。彼の構想は、狭い意味での民主主義のあり方の変更ということではなく、政治改革プログラム、経済改革プログラム、福祉改革プログラムを含む全体的社会改造プログラムなのです。ここでは紹介できませんが、『アソシエーション革命へ』第2章の形野清貴による詳細な紹介をご覧ください。
「アソシエーション革命」を考える上でもうひとつ大事なことは、まずは国家権力を握って、次に上から社会を強行的に改造するという、伝統的革命イメージから脱却する必要があるということです。あくまでも生活者という立場から出発して、様様な生活における危機をてこにして「相互にアソシエートする技」を身につけ、陣地を構築し、新しい価値、新しいモラル、新しい生き方を創造し、これを普遍化していこうとする運動でなければならない。
しかし逆に「アソシエーション革命」を促すために政治的手段は一切用いるべきではないとするのも極論です。新しい社会運動は「シングルイシュー」で終わりがちです。みずから横につながりながら、政治的な力に結実させることが、日本では十分できていない。もちろん既存の国家の中になだれ込んだらいいということではありません。むしろ現在の肥大化した国家を「アソシエイティブ・デモクラシー」の方向で根本的に変革する努力と一体に、自分たちが政治的に自己表現する形を作り上げるということは当然必要不可欠だと思います。
さらに申し上げたいことは「実践的にタフなアソシエーション」ということです。(図)で示したように、既存システムは経済制度(市場と経営体)、国家、親密圏からなっております。我々は自発、自治、協議、協働というあり方と現に我々が生きる現存システムとの中間に、政治的アソシエーション、経済的アソシエーション、生活的アソシエーションを構築して、社会をアソシエーション化していかねばなりません。そのためこれら各アソシエーションの現実形態は、半ば親密圏に組み込まれ、半ば経済システムに組み込まれ、半ば官僚制に組み込まれるという両面を持つでしょう。いわばアソシエーション化する力と脱アソシエーション化する力が、同時に働くということです。脱アソシエーション化する力が働くなどあってはならないと考えることは現実的ではありません。この二つのベクトルを見抜いた上で、アソシエーション化のプロセスを進めるべきでしょう。
日本では、ヨーロッパと違い、集団主義意識が強くて、アソシエーション運動は成功しないだろうとよく言われます。これは半分正しく、半分間違いだと思います。皆さんの生活クラブを含めて、日本における先進的事例は、到達点として、様様なアソシエーションが「立体化」を通して「地域化」するというところまで進んだと考えます。こうしてアソシエーションとコミュニテイーの結合が部分的に構築されるつつある。もちろん達成は同時に新しい課題の生成でもありますし、これが全国化できているということでもありません。しかし私としては、ルーツや規模や政治的立場を異にする色々なアソシエーション運動に、その差異にもかかわらず、「立体化」をとおしての「地域化」という論理が共通して見られる点に注目し、一応の今日的達成と見ることができると考えます。
以前によく「失われた10年」と言われましたが、今もって日本の未来展望は混濁したままです。いたるところでヘゲモニーの空白が生じているように見えます。市場競争主義で、まして家族主義とか会社主義とかナショナリズムで、21世紀の日本が語れると本気で考えている人は少ないでしょう。今こそ「アソシエーションがドミナントなあり方へ」日本社会を変えるべきときです。そのために、我々自身がもっと「アソシエイティブに生きることを学び」、トクビルの忠告に従い「互いにアソシエートする技」を身につけなければなりません。