人間論の古典に学ぶ 人間論 (田畑) 資料


(1)神(エホバ)と人間『旧約聖書』の「創世記」(古代ユダヤ人の神話、BC10世紀ごろ?)

「神は6日間かかって、光と闇、空と水、地と海、草と木、太陽と月と星を創造し、また種類に従って魚と鳥、獣と虫を創造し、最後に魚、鳥、獣、虫を治めさせようと、「我々の姿に似せて」人(アダム)を創造した。神は人を祝福し「生めよ増えよ地に満てよ、これを従わせよ、魚と鳥と生き物を治めよ」と言った。そしてエデンの東に楽園をつくり、住まわせた。ただし「善悪を知る木」の実だけは食べることを禁じた。アダムを助けるものがいなかったので、アダムが寝ている間に彼のあばら骨をとり、そこから女性イブを創造した。ところが蛇がイブを誘惑して「この木の実を食べても、死ぬことはなく、むしろ神のように善悪を知るようになるだけだ」と言った。イブは賢くなりたいと禁断の実を食べ、夫であるアダムにも食べさせた。突然アダムもイブも裸体を恥ずかしく思い、イチジクの葉で隠した。神は約束違反に怒り、今後、蛇には腹ばい、塵を食べ続けることを命じ、女には出産時の苦痛と夫への服従を命じ、アダムには苦業としての労働を命じ、死により土にもどることを命じた。やがて夫婦に子供ができ、兄のカインは農夫に、弟のアベルは羊飼いになった。あるとき兄弟が神に捧げものをしたとき、神はアベルのものにだけ注目してカインのものを顧みなかったので、カインは腹を立て、神から顔をそらした。そして野原で弟を殺害してしまった。神は怒って、カインを追放し、流浪民にした。カインから数世代たって、人の数が増え始めたが、悪がはびこっているのを見て、神は嘆き、地上に人を創ったことを後悔し、「自分が創造した人を地上から拭い去り、獣、虫、鳥も滅ぼそう」と決意した。正しく生き、神とともに歩もうとしていたノア一族と各生物種ひとつがいを除いて、それらを殲滅することになった。それでノアに「すべての人の終わりが近い。人のおかげで暴虐が世界に満ちているので、私が世界とともに彼らを滅ぼすのだ」と言い、箱舟を準備するよう命じた。 (終末論=eschatology 世界の終わりが切迫しているという世界観)

(2)人生は苦である ゴータマ・ブッダ(およそBC.560-480

『相応部経典(漢訳では雑阿含経)』(最古の仏典とされる)

[第一諦]生は苦である。老は苦である。病は苦である。死は苦である。嘆き、悲しみ、憂い、悩みは苦である。怨み憎むものに会うのは苦である。愛するものと別離することは苦である。求めて得ざるは苦である。総じて言えば、人間の存在を構成するものはすべて苦である。

[第二諦]では苦の生起(原因)はなにか。迷いの生涯を引き起こし、喜びと貪りを伴い、あれへこれへと絡まりつく渇愛がそれである。すなわち、欲の渇愛(性欲)、存在の渇愛(生存欲)、無有の渇愛(優越欲)がそれである。

[第三諦]では苦を減じ滅する方法はなにか。その渇愛を余すところなく滅して捨て去り、振り切り、解脱して、執着なき状態に至ることである。

[第四諦]では苦の滅尽に至る「道」(実践)はなにか。それは[出家して]聖なる八つの正しい実践を行うこと、つまり正しく見、正しく考え、正しく語り、正しく行為し、正しく生き、正しく努力し、正しく念じ、正しく心を注ぐことである。」    

「諦(たいsacca)」とは真相を表す厳粛な言葉のこと。「仏陀」は悟りを開いた人(覚者)の意味。

(3)「考える葦」としての人間 パスカル(B.Pascal 1623-62) 

フランスの哲学者 、『パンセPansees』(初版1670

「人間は一本の葦にすぎない。自然のうちでもっとも弱いものである。だがそれは考える葦である。かれを押しつぶすには全宇宙が武装するにはおよばない。ひと吹きの蒸気、ひとしずくの水が、かれを殺すのに十分である。しかし宇宙がかれを押しつぶしても、人間はかれを殺すものよりもいっそう高貴であろう。なぜならかれは自分が死ぬことと、宇宙がかれを超えていることを知っているが、宇宙はそれらのことをなにも知らないからである」(347節)。「空間によって宇宙は私をつつみ、一点のように私を飲み込む。思考によってわたしは宇宙をつつむ」(348節)。

死や有限性を自覚する存在としての人間存在の特質はしばしば「実存existence」と呼ばれる。

(4)人間の「非社交的社交性」  カント(Immanuel Kant 1724-1804) 

18世紀ドイツの哲学者『世界公民的見地における一般史の構想』(1784

「地上における唯一の理性的被造物としての人間に備わる自然的諸素質は、理性の全面的使用を最終目標とする。だがこの諸素質は人類という規模においてのみ完全に発達するのであって、個人においてではない。

自然的諸素質を理性使用へと発展させるために用いられる手段は、人間の自然的素質としての非社交的社交性(die ungesellige Geselligkeit)という敵対性である。人間は集まって社会を形成しようとする性向をもつが、この性向はこの社会を不断に分裂させようと脅かす性向と結びついている。人間は自分の中に社交的性向と同時に、他者に対抗し、一切を自分の意のままに処理しようとする非社交的性向をも見出す。ところでこの対抗心こそ、人間が本来備えている一切の力を覚醒させ、怠惰の性癖を克服させ、また名誉欲や支配欲、あるいは所有欲に駆られて、人間仲間の間でひとかどの地位を得させるのである。未開状態から脱出して文化へと向かう第一歩はここに始まる。そしてやがて文化状態の下で諸個人の諸能力が展開され、趣味が開発され、啓蒙がなされて、当初は強制によって結成された社会を、道徳的理性的社会に転化しうる思想が形成されるのである。 

非社交的特性それ自体は好ましからざるものである。とは言えこのような非社交的性向がなかったならば、人間はいつまでも純朴な牧羊生活を営み、仲間内の和合、つつましい満足、人々の相互愛は実現できようが、人間たちの一切の才能は永久に埋没させられるだろう。われわれは人間間の不和合、相互に妬みながら競争する虚栄心、飽くことを知らない知識欲、さらにまた所有欲についても、自然に感謝してもよい。自然が人間に求めるのは、無気力と無為とに甘んじてひたすら現状に満足するという安易さを捨て、耐え忍んで勤労と辛苦の生活に入り、ふたたびこの辛い状態から巧みに脱出する手段を見出すことなのである。」(第二命題、第四命題)

(5)「自己疎外」する人間 マルクス(Karl Marx 1818-1883) 

ドイツ出身の思想家『経済学哲学草稿』(執筆1844)岩波文庫

[生産物の疎外]生産物において労働者が自分を外化するということは、彼の労働が対象となり、外的存在となるという意味を持つだけでなく、彼が対象に付与した生命が彼に敵対的に、疎遠に、対峙してくるという意味をもつ。

[活動そのものの疎外]しかし疎外はたんに労働の成果においてだけでなく、生産的活動そのものの内にも見られる。労働者は彼の労働において自分を肯定せず、かえって否定し、快適と感じず、かえって不幸と感じ、自由な身体的精神的エネルギーを展開せず、かえって身体を痛めつけ精神を破滅させるのである。

[
共同性の疎外]疎外された労働は人間から自然を疎外し、彼の生活活動を疎外することにより、人間から類(共同性)を疎外する。それは類的生活を個人的生活の単なる手段たらしめる。

[他者からの疎外]人間が彼の労働の産物、彼の生活活動、彼の類的存在から疎外されていることの直接の帰結は、人間の人間からの疎外である。各人が人間的あり方から疎外されているように、ある人間は他の人間から疎外されているのである。」

疎外=ドイツ語でEntfremdung、英語でalienation、もともと自分のものであったものが疎遠なものとなる、他人のものとなる、という意味。

(6)自我は「三人の暴君」に仕える 

フロイト(Siegmund Freud 1859-1939)オーストリー出身の精神分析学者

『精神分析学入門』(正1917、続1932)中公クラシックス

「同時に二君に仕えるなかれという格言がある。ところが哀れな自我は二君に仕えるどころか三人のやかましい主君に仕え、それぞれの注文と要求を互いに調和させようとして骨を折る。だから自我がじつに頻繁にその仕事をしくじるのも無理はない。三人の暴君とは外界(現実)、超自我(内面化した社会規範)、エス(欲動する身体)である。自我が外界の諸要求を代弁するのは自我の宿命である。しかし同時にエスの忠実な召使となり、エスと現実(外界)との中を取り持つために、エスの無意識的命令に合理化の着物を着せ、両者の軋轢を取り繕わねばならない。他方、超自我は、自我が外界およびエスからの色々な難題に困惑しているのを無視して、自我に対して行動の一定の規範を突きつけ、それに従わない場合には劣等性と罪悪意識という緊張感情で自我を罰する。自我はエスに追いまくられ、超自我に締め上げられ、現実に突き飛ばされながら、何とか調和を作り出そうと奮闘する。「生きることは容易ではない」というため息が出るのも無理はない。自我は自分の弱さをさらけ出さざるをえなくなると、突如として不安状態に陥る。外界に対しては現実不安、超自我にたいしては良心の不安、エスにおける情欲の強さに対しては神経症的不安を発生させる。」(31講「心的人格の解明」より)

(7)人間は現実を超越しようとする存在である 

シェーラー(M.Scheler 1874-1928

ドイツの哲学的人間学提唱者。『世界における人間の地位』(1928

「人間はおのれの精神の力によって、衝動や感覚的知覚の世界に拒否の態度をとりうる生命体である。現実存在に対して常に「イエス」を言う動物と比較すれば、人間は「ノーと言える者」「生の禁欲者」「単なる現実に対する永遠の抵抗者」である。人間は自分を取り囲む現実に決して安息することなく、「今ここにおけるあり方」の桎梏を突破することをつねに切望し、おのれを取り巻く現実やおのれ自身の現実を「超越」しようとする存在なのである。こういう「脱現実化」を遂行しうるのは、我々が「精神」と呼ぶ存在だけなのである。精神的存在者の根本規定は、生と生に属するすべての桎梏や抑圧や依存から自由になり解放されることができるということに他ならない。」

(8)シンボルを操る動物としての人間

カッシーラー(E.Cassirer 1874-1945

ドイツ出身の哲学者、『人間――この、象徴を操るもの』(1944年)

「人間は、ただ物理的宇宙ではなく、シンボルの宇宙に住んでいる。言語、神話、芸術、および宗教は、この宇宙の部分をなすものである。それらはシンボルの網を織るさまざまな糸であり、人間経験のもつれた糸である。あらゆる人間の思想および経験の進歩は、この網を洗練し強化する。人間はもはや実在に直接当面することはできない。人間はいわばそれを、面と向かって見ることはできないのである。物理的実在は、人間のシンボル的活動が進むにつれて、後退してゆくようである。人間は、「もの」それ自身を取り扱わず、ある意味において、常に自分自身と語り合っているのである。人間は言語的形式、芸術的イメージ、神話的シンボル、宗教的儀式の中に、完全に自己を包含してしまったがゆえに、人為的な媒介物を介入せしめずには、何ものをも見たり聞いたりすることはできない。人間は固い事実の世界に生活しているのではなく、また彼の直接的な必要や願望によって生きているのではない。むしろ想像的な情動のうちに、希望と恐怖に、空想と夢に生きている。エピクテトスは言った。「人間を不安にし、驚かすものは、物ではなくて物についての人間の意見と想像である。」

 このような理由で、人間についての古典的定義を訂正し拡大することができる。人間は「理性的動物(animal rationale)」と呼ばれているが、これは概念言語のほかに情動言語があり、科学言語のほかに詩的想像の言語があることを見ず、また言語の他に神話や宗教という非合理なシンボル形式もあることを見ていない。だから人間を「理性的動物」と定義する代わりに「象徴的動物(animal symbolicum)」と定義することにしたい。」

(9)遊ぶヒト(ホモ・ルーデンス)ホイジンガ(1872-1945

オランダの歴史家、『ホモ・ルーデンス』(1938

「ホモ・ルーデンスはホモ・ファーベル(作るヒト)と並んで人間の本質機能を表している」「我々は、遊びを総括的に次のように言うことができる。つまり(1)本気でそうしているのでなく、(2)現実生活の外にあり、(3)にもかかわらず遊んでいる人を心底捉える事もできるような、(4)強制されたのではない自由な活動である、と。遊びは何の物質的利益ももたらさない。また遊びは規則に従い進行する。遊びは秘密に取り囲まれていることを好み、変装などにより日常生活との差異を強調する。」「文化は、その黎明期においては、なにか遊び的なものを固有の特質としてもっていた。いや、文化は遊びの形式と雰囲気で営まれた。」

10)人間=機械論  N・ウィーナー(1894-1964

サイバネティックスの創始者、『人間機械論』第2版1954

「人間は予測しがたい環境世界に生きているが、環境の変化に適応する生理的知的要件(学習能力)を備えている点で他の生物より優位にある。しかし、この学習という行動パターンは機械にも見られる。フィードバックとは、あるシステムがすでに遂行した仕事の結果をそのシステムに再挿入することによってそのシステムを制御する方法である。機械が、仕事の結果から送り返される情報により、仕事の一般方式と仕事のパターンとを変更することができれば、この機械は、学習するということができる。」 

現在の人間機械論はサイバネティックス(「通信と制御のシステム」に関する学問)や情報科学に依拠。input→処理→output→制御→feedback

『サイバネティックス』第2版(1961)でウィーナーは「増殖する機械」の可能性も指摘。

課題 もっとも気に入った人間論を一つ選び、できるだけ詳しく解説しなさい。

 (上記の人間論は、いずれも古典的で、今でも基本とされている。それぞれ難解な文章だが、読解に挑戦し、そこに込められた人間の見方の特徴を考えてみよう)