松岡鉄久
認識は文脈性からは離れることはできない。また思考においてはそれを意識することもできる。「思考」というから高級なものと感じてしまうのであって、つまりは晩御飯を考えることでも、同じことである。この文脈性の構造はここでは取り上げない。その構造が認識と、思考の二つのレベルで現れることのみを書いておいて、今回論文で対象にするのは前半は認識レベル。後半はさらに表層(あるいは外部)の実際面である、という位置を付けておく。さらに、その位置において、芸術を対象にする。
以下、ことわりが無ければ、引用は『人間』:E.カッシーラー:宮城音弥訳:岩波現代叢書(特に第九章「芸術」)。
引用(芸術とシンボル形式):(A)「他のすべてのシンボル形式と同様、芸術はただ、既成の、与えられた現実の再生ではない。それは物及び人間生活に関する、客観的な見解に至らせる方法のひとつである。」(P.203)(傍点、筆者)
引用(客観的であること):(B)「感情的知覚に客観的な意味を与えるためには、それを分類し、一般的な規則にあてはめなければならない。(C)このような分類は、単純化への持続的努力の結果である。」(同上)
(A)芸術は、現実の再生・模倣ではない。それはその(芸術作品の)作者による世界に対しての視点と、また、その視点からの世界構築である。※1
※1:これは他のシンボル形式と共通である。そしてそれは認識論的な意味に於いての性質である。
(B)“詩”は客観性を持つ。“詩”を“言葉”に対応するアナロジーに於いて、主観的作品は何になるかといえば、それは“単なる叫び声”があてはまる。この「客観」性――シンボル形式故の客観性――は、実際面としての延長では、作品に対しての観察者(以下“見る人”)を必要とさせる。
(C)ここでの「単純化」は、“科学に於けるある単純な公式で多くの現象を統一する”といった意味でではなく、認識論的機能としての単純化と捉えなくてはならない。統一性(や、それに向かう積極性)は、単純化のもつそのレベルでの共通点であって、客観性が持つ意味の範囲とは同列でない部分をもつ。(1)
(1):芸術と他のシンボル形式との差については次の引用、「言語の科学は現実の簡略化であるが、芸術は現実の強化である。」(P.204)で補足できる。上の文章を合わせると強化という単純化⇒芸術であり、簡略化という単純化⇒言語・科学とまとめられるだろう。
引用(実際に於いて):「(前略)学問的に短編小説の構造、長編小説の構造、心理小説の構造など分類比較することは、むろん不可能ではないでしょうが、そうして得た結果が複雑難解であるわりに技術面での応用価値は少ないものです。それよりも本をたくさん読み、その感動を客観的に整理しなおし、たえず自分の中の作者と読者の対話※において経験を蓄積する習慣を…(後略)」(点筆者)『猛獣の心に計算機の手を:安部公房全作品13(P.120)』
※:安部は同じ文章の後の部分に、この読者とは作者の中の読者である部分であるということを述べている。
この引用の解釈は上の(A)、(B)がそのまま有効であると思える。新しい部分“読む本”(材料的経験)の作者と、作者の中の読者の関係での役割は作品に対しての、材料ではない。「良いものを作るためには良いものを見ろ」というのは言葉としては正しいともとれるが、普通考えられる意味としては対象が違っているわけである。
作者と作者内読者、作品と読者をむすびつける客観性に於いて“読む本”が必要なのは作者である。ある“見る人”が作品に対して感想を持つことは、作品が客観性を持っている以上、自由である、ということだ。また、読者は客観性についてならば“読む本”を持っている人とであっても同等なのである。
※:ここでの真実は、作者が伝えたい作品の意味が実在するとして、それが不変であり、伝えるに於いては上限としての完全性。
客観性と価値判断の自由は、“真実”に対してはどのような意味を持つだろうか。
1.真実はあるものと考える:与えられる情報の量の重要性→真実に近づくことの前提とその結果として意味の収斂の要請
この立場の者は、作品をごく精密に見なくてはいけない。また作品が作られた背景(時代、材質、作者の状態など)を真実に近づく材料として要求する。しかし、この“意味を読み解く”――それはつまり、意味の普遍を前提にしている――ことは全くの誤解であり、この立場は実際にとられていることはおよそあるまい。
2.真実はないものと考える:与えられたものへの価値判断の自由→意味はそれぞれに展開し、また、変化が可能である。
こちらの立場が、しかし即座に正しいとは言い切れないだろう。それでも、シンボル形式の理解としてはこの立場は可能であるし、実際の問題解決の糸口になりうるものである。
ここで、ひとつの例題を考えよう。色盲者は、芸術を理解できないか? 1.ならば、できうるとしても、そのためには彼は真実に近づくために、色を感性でもって修正しなくてはいけない。2.の理解ならば、彼はなんら色の修正をすることなく、作品を見ることができる。色盲は例である。極例を出さなくとも、ただ、あなたの目と私の目は違うという点だけでこの例は問題足りえる。
歴史学者はこの問題について、はるかに具体的な意識を持っているだろう。ある主流の学説があり、それが新発見によって全くの誤りであると分ったとき、その学説の意味はどうなるのか、という話である。あるいは逆に、“新発見”はどういう意味を持つのか、でもよい。かかる発見は(信用できるのを前提にして)真実に近いものであろうから重要である〔1.〕。いや、(その新しい)真実に近いから発見されたのである〔2.〕。
作品にとって名前は付加価値として機能する。それがあることによって解釈に影響を与えることができる。上の“新発見”も付加価値として――真実とは関係ないものとして――考えることで、(何が真実かという)困難は避けられる。また、“付加価値”は作品の部分と全体の問題を回避する。名前も作品なのか、額は作品なのか、置かれる場所は作品なのか、『考える人』はそれだけで作品なのか、部分なのか。これらはすべて真実を前提としている故の難点である(2)。
(2):「付加価値」は仮称である。付加する価値であり、付加される価値でないという区別のためにこの呼び名は適切ではあるまい。
現代はコピーの文化であるらしい。コピーの問題――それを問題としているのは芸術からは遠い面なのであるが――は今回取り上げた(〔2.〕の)視点から考えるべきものの代表であろう。作品に対して本質的に影響を与えるのは“コピーをすること”ではない。“コピーがされた”ということである。それをマイナスと捉えるのは1.の立場である。同じことだが、プラスとして捉える(例えば、これはコピーであるから本物はもっと美しいはずだ、という)のも1.の立場からである。
上では芸術から遠いと書いたが、相性が悪いわけでは決してない。芸術も科学や歴史のように真実が重要視されるものであるが、特には物件的本物志向が強い点、他から区別されるのではないか。かかる志向は、無くてはならないものとして芸術の実際(のうち、現在の芸術に対しての認識)は構築されている。
かかる視点の機能は問題の回避だけでない。価値判断に於ける真実前提からの自由は、そのまま、意味の収斂からの自由を与える。作品はあらゆる視点に分解され、また、他のものとの統一に対して柔軟になる。
さらに、実際的には、“コピーについて”で例を挙げると、“商業物件・フェチズムの対象としてコピーが問題である”から出発することによって対策が明確になりいちいち芸術性に立ち返る必要がなくなるのだ。
2.の立場は、場当たり的な判断を惹起せしめるものではない※。かかる“自由”は認識のタイミングで発生する自由に対して基礎であって、実際の判断に対しては別の文脈で考えるべきことであろう。しかし、これを方法論的に取り入れることは認識領域・学問領域の――つまり実際を扱う領域の――拡大につながると予想される。
※もし、場当たりな判断があるとすればそれは、目に付くところで真実を設定しそこに意味を収斂していく[1.]の立場がそうであろう。
さて、この自由を認識レベルで得ることは可能か。自由を客観性からの脱出とするなら、それは“考えること”ができないのであり、不可能である。それに対して私は疎外論の前提として価値判断の自由があり、かかる自由の展開から非所有的自由という疎外論の所有的自由と立場を逆にする側面を定義し、この側面からの自由を上の不可能である自由と結びつけて……(以下本文)
本来載せるべき予定であった論文が間に合わず、穴を埋めるために叩き出されたこの文章は、ある友人に宛てた手紙のプライベートな部分を削り、章分けと細かい斧鉞を追加したものである。メモの体裁のせいももちろんだが、それにつけても、本来の論文「本質についてシンボル形式の哲学からの解釈」の製作途中に思いついた、その後の展開についてのメモであり、その点でも内容の不十分さの原因がある。ところで、その本来の論文は近いうちにお目に掛ける事ができるだろう。この論文に“付加価値”を期待する方は参考にして頂きたい。