自己と社会〜大衆社会について〜

1、幻像の交換

 我々は有史以来、対話を行ってきた。物と対話することで道具を用い、人と対話することでコミュティーを形作ってきた。僕はこの対話という奴について、一寸書いてみたくなった。この文章ではこれから先、対話の形態について幾つかの事柄を確認するつもりである。しかし僕にはこの半ば使い古され、色褪せてしまったテーマに新たな方向性を見い出す程の力はなく、多くの読者にはただの付け焼き刃にしか思えないはずだ。だから聡明な皆さんの貴重な時間を割いて頂けるような読み物ではなく、できるならば以下の文章よりもこの書き物の最終項に挙げる参考文献を直接読んで頂いて各々の洗練された思想に触れていただくことをお薦めする。
 さて、冒頭より少々軌道を逸してしまった内容を修正しよう。つまりここで我々は我々自身を形成する対話という事象に対して一定の認識から語らなければならない、つまり、「対話とは何なのか」、という問いだ。しかしこの「問う」という事柄、それ自身一種のセンチメンタリズムなのかもしれない。何故ならそうして問うたとしても眼前に広がっているのは殺伐とした家々であり、日常であり、陽の光だからである。問い続けたところで我々の問いがなにやら新しい世界をもたらす、ということはあり得ない。さしずめ果てのない螺旋階段である、一体自身が登っているのか降りているのかも判別できないような……。しかし我々は問うことを止めることもできないのだが。
 …といった具合に対話という事柄は、単に文字どおりの意味ではなく、例えば上記のような自己内対話というものもある。それはさながら一種の「幻像」である。それは対象に「投げかける」行為だ。対象との間に無限に広がる虚空になげかけるのである。我々は虚空に映った蜃気楼に話し掛ける。決して対象と直接交わることはない。できるのは無限の虚空を介して自身の作り上げた幻像に語りかけることでしかない。それでしか他者はおろか、自己とでさえも対話できない。そういった我々の対話の要素…言語や記号、対象といったものはフィクションと言うこともできるだろう。それらはリアルなものではなく、リアルの模倣なのである。我々には元来模倣しか存在しない。それはレンズと例えるのがいいのかもしれない。このレンズを失ってしまっては、自身を措定することすらなしえない。このレンズ…幻像は存在する世界の影響を受けるが、その際にも我々は存在そのものの変化を「正確に」了解することはできない。一体我々は世界をどれだけ正確に語りうるというのか?そもそも何をもってして正確という事柄を定義しうるのか?他に頼るところもなく使い古された辞書か、それとも泥に溺れ汚物まみれになった習慣からなのか?いずれにしても、それらからはこの問いの、最終的な答え、それが我々の一般に用いる語感と異なることを認めないわけにはいかない。つまり、正確という語の虚構性のみが我々が出しうる限界なのである。この虚構性こそが幻像の正体なのである。

2、幻像の共有

 つまり我々は言語の、記号の虚構性、幻像でもって世界と関係してきた。リアルな世界とフィクションでしか関係を作れなかった。眼前にあるものをありのままに受け取ることもできず、それこそ「裁判所が背中越しにありながら、其処を探している」のであり、そしてそれ以外に他の方法で世界と関わることができないのである。我々は一度たりとも世界をそれ自身として認識することができない。例えば電車に乗っているとき、恋人と会っているとき、目の前に生き生きとあるそれらを我々は真の意味で「掴む」ことができない。ただ其処には、存在する世界を媒介とした幻像の共同体、社会が存在するのみだ。そして我々はこの社会でしか自己を措定できない。何故なら我々は対話を行わなければならないから。自己の措定はつまり、他者との差別化であり、さながら泥の海から人の形をつくり出す作業である。自身を他と差別化できない自己は恐くは世界と一体化する。何故なら非差別化とは認識の放棄であり、自身を物質それ自身へと引き戻してしまうからだ。だから他者との差別化なしには自己を立脚させることはできない。
 では我々はいかにして自己を他者と差別化しうるのか?泥の海からいかにして自身を見い出せるのか?それは幻像の共有化だ。幻像はある一定の共有化を行われることによって、自己と他者との相互の会話を可能にする。それは言語の共有でもある。幻像の一形態である言語は量的集団の中で一定の共通認識を獲得することによって、成立する。差別化とはまずは世界の措定から始めなければならない、それが措定であるから。我々は泥を泥と、世界をそれ自身と積極的に仮定する。仮定を通してリアルな世界そのものと関係しながら泥の海でない自己そのものを措定する。そしてこの差別化した自己を他者と了解しあうことで初めて一般に我々が言うような自己として成立する。仮定を基にした、言語と認識を基にした対話が発生する。相互の了解を排してしまっては自己は無限の膨張を続けてしまう、他者によって措定されないからである。それは無限増殖する単一の思考のアメーバになり、ただ浮遊を続けるのみであろう。
 我々は日常的に、アメーバではない。しかし我々は幻像で構成された思想だ。全ての対話は仮定の、幻像の相互了解によって措定された社会の中で交換され、幻像は社会の中で一定の共通認識として了解される。その限りで社会は世界に対するシミュレーションだ。我々の肉体が世界に存在して自覚的に運動する限り、思想が活動している限り、世界はリアルであり、我々の社会、共通認識はリアリティに立地したシミュレーションである。

3、社会の性質

 このシミュレーション、社会とは幻像の共有によって構成された認識の量的存在である。そしてこの社会がシミュレーションである以上、幻像の一形態である以上、社会は変換可能である。そして自己が社会を構築している以上、ある一定我々自身によって変換が可能だ。社会の変換…それは共通了解である社会の大衆としての我々の幻像の変換である。いや、元来社会は動的なものであり、幻像は常に変容しつづける。我々がこの変化に気付かない場合、それは社会の中で自己を差別化しきれずに同化しているのだ。この場合、我々は大衆という形態をとる。一個の自我ではなく、巨大な幻像のシステムの主体となる。自己はここでは量的な集合体の役割を強く担い、単体としては社会に対して反無限のニヒリズムと積極者に変容する。が、それは個人としては完結し得ない。大衆という集合体の形態によって成立する。大衆という地平で、社会と同一の等身大となるのである。この時点で自己は幻像の変容という流れの中で積極的な能動者とは言い切れない。今日ではむしろ不確定要素を持つ受動者として了解される。
 その例は流行である。流行とはつまりは噂に他ならない。何故なら流行は実体を伴わないから。実体を伴わない流行は膨張を続ける。まさしくねずみ講式の噂の洗練された一体系である。大衆である我々は、流行のこの途方もなく広大な幻像にたいして選択権しか持ち得ない。いや、場合によっては選択権すら持ち得ない。流行の本質は大衆に対する攻撃性を伴った変換、暴力性そのものと言ってもさし支えない。大衆は決して流行の発信者にはなりえない。できることは発信させられた流行を量的運動によって変容させることだけである。
 故に我々の社会は一般に大衆社会である。つまりこの社会には、大衆と発信者が混在する。

4、社会の一形態としての今日

 では、今日の社会の、大衆社会はどのような構造をしているのか?それは端的に言うならば一種のマス・ゲームだ。少人数のプレイヤーによる幻像の操作である。

X、自我

 この社会において、これまでは機能としての人間の有り様を確認してきた。では、個々の我々はどうなのだろうか?大衆を構成しながらも、では他方で自我であるこの「私」は何なのか?この問いは社会の機能性に真に向き合って初めて出現する。そしてこの答えは苦悶でしかありえない。我々は機能性でなければ存在できず、それでいてこの機能性を本質的に絶対了解できないのだから。

参考文献

アドルノ著「文化産業ー大衆欺瞞としての啓蒙」
法政大学出版局出版 叢書ウニベルシタス136 ジャン・ボードリヤール著「シミュラークルとシミュレーション」竹原あき子訳
平凡社出版 「現代人の思想2 実存と虚無」の解説