田村卓也
私は、以前より進化学に興味を持っておりました。そして、その進化学、あるいは進化論という考え方が、何冊かの本を手に取って読んでいくうちに他の分野(自然科学の他の分野のみならず人文、社会科学、哲学など)にも多大な影響を与えていることを知りました。その中でも私は特に意識、認識、心、道徳、言語、行動と進化との関係ということに対して大変興味を持っています。今回、本来ならばこれらの事柄に関して論じるつもりだったのですが、私の準備不足のため論じることは難しいと判断しました。そこで一冊の本 佐倉統「進化論の挑戦」角川ソフィア文庫を主に参考にして、進化論の歴史を述べることでお茶を濁せればと思います。
進化とは一番分かりやすく言えば生物が40億年という長い年月を辿ってきた歴史であり、進化学とはその研究であるといえます。ただし、これではごく当たり前のことしか言えていないので、もう少し詳しい定義をしたいと思います。「祖先から受け継いだ形質が変化すること、あるいは遺伝する形質の変化」。これが進化という概念の定義です(もう少し詳しい解説はプロジェクト研究の私の論文に書いてあります)。
この進化は進歩と同義であるように一般的には考えられているようですが、進歩のように一定の方向に発展するというような意味はありません。フランス語では英語と同じevolutionで進化を表しますが、ドイツ語では今でも英語のdevelopmentに相当するEntwicklungを進化の意味で使うことがあるようで、進化=進歩の間違いは解けていないようです。
進化=進歩の間違いの例としては、下等な生物から私達のような高等な生物が誕生したというような理解があります。これは何を基準にして高等だとか下等だとかを言っているのか分かりません。植物は光合成を出来ますが、動物は出来ません。鳥は空を飛べますがヒトは飛べません。このことから進化と進歩には何の関係も無いことが分かります。
現代の進化学の始まりは19世紀のチャールズ・ダーウィンに始まることは誰しも知っていることだとは思いますが、この進化学が現在に至るまでにどのような過程を経てきたのかをダーウィン以前と以後とに分けて述べたいと思います。
ダーウィン以前(かなり昔ではなく18世紀に限定)、科学はキリスト教と密接な関係を持っていました。18世紀の西洋生物学は神の摂理の探求を目的とし、その中で進化論は2つの柱となる理論がありました。1つは種の不変論、2つ目はデザイン論です。前者は全ての生物種は神がその完全性を示すために創造したもので、その性質は不変であるという考え方。後者は自然が巧みに設計され秩序づけられていることを明らかにすることで神の素晴らしさが証明できるという考え方です。
これらの理論を最初に否定する理論は19世紀フランスの生物学者、ジャン=バティスト・ラマルクによって提唱されました。彼は1809年に「動物哲学」で種が変遷することを論じ、その点においては現代進化学の先駆けであったといえます。彼は、ある生物にとって必要で使用頻度の高い器官は発達し、不必要で使用頻度の低い器官は退化して、その変化は子孫に遺伝するという用不用説を唱えました。しかし、このような事は獲得した形質が遺伝しなければ起こりません。そして今ではこの説は否定されています。そのためデザイン論に取って変わるような仮説とはなりませんでした。だいたい、例えば腕をどの程度使ったなんてことが次の世代にまで遺伝するなんて、明らかにおかしな事であるような気がするのですが。
これに対してラマルクに反論したジョルジュ・キュヴィエは、種の変遷に関しては保守的だったものの、分類体系ではラマルクよりも優れていました。ラマルクの進化は現生生物を出生時間順に並べ、下等なものから高等なものへと分類したもので啓蒙的、直進的なものでした。これに対してキュヴィエの分類学は、外部形態と生理的特徴を考慮した比較解剖学によって生物を並列的に配置するというものでその点において、彼の分類体系は現代の生物学者も認めるものとなっています。
ラマルク、キュヴィエ、そしてもう1人チャールズ・ライエル、彼ら3人がダーウィンに影響を与えた主な人物した。チャールズ・ライエルは「地質学原理」(1830−33年)によって斉一説を唱え、当時主流だった激変説を論破した地質学者です。ライエルは、現在の様々な地形が過去に起こった洪水や火山の爆発などの急激な変化の名残であるという考え方に対し、日常的に起こる侵食のようなごくわずかな変化が累積して、大きな地形の変化は考えられると言いました。この考え方はダーウィンに重大な影響を与え、現在も観察できる微小な変化が過去の大きな変化の原因であるという視点をダーウィンは学びました。
ダーウィンは1831年、ライエルの地質学原理を携えてビーグル号の航海に参加しました。ダーウィンはこの航海の途中で種の変遷論を受け入れたようで、帰国後自然選択を考案します。彼はトーマス・マルサスの「人口論」(1798年)を読み、人口は等比級数的に増えるが食糧資源は等差級数的にしか増えず、資源をめぐって生存競争が常に生じるという部分から自然選択を思い至ったようです。
その後ダーウィンは自然選択の証拠を集めようとしますが、ダーウィンの慎重深さも手伝ってか発表までに時間がかかっていました。そこへ1858年、熱帯地方で標本採集をしていた博物学者アルフレッド・ラッセル・ウォレスがダーウィンのもとへ、ダーウィンと同じような自然選択理論を説明した原稿を送ります。ダーウィンはこれには焦ったようで、結局は友人のフッカーとライエルの調整でダーウィンとウォレスの論文が1858年のリンネ学会で続けて発表されることになり、それでおちついたようです。そして、その翌年、まだ出版するにはもう少し時間の必要だった著作の要約として「種の起源」が出版されます。
ダーウィンの自然選択理論は発表後直ぐに受け入れられたわけではありませんが、1870−80年代には多数の支持者を得ていました。しかし、欠点として遺伝の機構が分かっていなかったため、完全に進化のメカニズムが解明されたとは言えませんでした。これを補う発見をした人物として、高校の生物の教科書に登場する修道士グレゴール・メンデルがいます。彼はエンドウマメを使った交配実験により、現在の遺伝学の基礎になるものを築きました。しかし、この成果は1865年に地方誌に論文として発表されたため、その後しばらくの間埋もれたままでした。そして、このメンデルの業績が発見されるのは1900年になってからなのですが、なんとダーウィンの理論を補強するはずのメンデルの理論が、この時にはダーウィン進化論に対立するものとなっていたのです。
その理由は、両者の変異の連続性についての考え方の違いでした。ダーウィンの自然選択理論は、生物の形質が徐々に連続的に変化すると考えていました。一方、メンデルの遺伝理論は、形質の変化が質的で不連続であることを示していました(例えば豆の色が緑→黄色というように)。そして、このメンデル理論は突然変異を重視する理論と結びつき、新種の形成は突然変異で起こり自然選択では起こらないという考え方が20世紀初頭は支配的になりました。
この対立を解いた人物としてはロナルド・フィッシャー、ホールデン、シーウォル・ライトの三人がいます。彼らは、ひとつひとつの遺伝子座ごとの動きはメンデルの法則に従い、遺伝子総体(遺伝子プール)全体のパターンはダーウィンの自然選択理論に従うということを明らかにしました。これは「進化の総合説」と呼ばれました。(1940年代初頭)その後、1970年代後半−80年代には古生物学と発生学から総合説に対して批判があり、さらに分子生物学からも対立する見解が提出され、総合説自体も拡張と修正が続けられました。このようにして進化学の考え方は今現在も変化しており、いろいろと新しい研究もされているようです。
長々と簡単な進化論の流れを述べてきましたが、この論文は本当に不完全なものであり私自身納得の出来るものではありません。本来ならば上で挙げたような事柄と進化との関係、あるいは今現在の進化学、優生学、ヒトと自然との関係などなどいろいろなことを論じるつもりでしたがそれは出来ませんでした。そのため次回こそは何かもっと大きなものを論じたいと思います。以上短い文章でしたがここで終えたいと思います。
佐倉統「進化論の挑戦」角川ソフィア文庫 2003年 pp14−30