浜谷沙織
今日、環境問題はある意味で「日常的」になっている。だからといって、環境問題が解決に向かっているというわけでもない。 また、一口に「環境問題」と言っても、様々な種類があり、アプローチ法や解決法も様々だ。
そこで、「リサイクル」「企業の取り組み」「環境問題の主体」という点から、環境問題について述べる。
地球環境の危機の一つに、資源の枯渇という問題がある。この問題を解決する一つの方法としてリサイクルが行われている。 リサイクルとは「再資源化」、一度使用したモノ(製品)を、溶かしたりなどして再び資源(原材料)にし、新たなモノ(製品)を作るということだ。古紙のリサイクル、ペットボトルのリサイクルをはじめ、様々なリサイクルが、今や日常的に行われている。そのため、リサイクルすることが当たり前になっていて、何でもかんでもリサイクルする。また、「リサイクル=資源の有効利用」という図式が存在するため、無条件に「リサイクルはいいことだ」という風潮になっている。今の日本社会は、「リサイクル至上主義」になっていると言える。
だが、リサイクルはそこまでいいものなのだろうか。何事にもいい面と悪い面はある。リサイクルも同様だ。そこで、「資本主義の中のリサイクル」及び「エントロピー」の観点から捉えた「リサイクル」について述べる。
まず、「資本主義の中のリサイクル」という点である。資本主義では、企業が利潤を追求するため、大量生産大量消費になる。大量に生産するためにはもちろん大量の資源が必要だ。「資源がたくさんある(と思われている)」時期はよかったが、資源の枯渇が懸念されるようになると、自然にあるものをどんどん使うというわけにはいかなくなる。そこで、製品としては不要になったものを再資源化することになる。大量に消費されているものなら、リサイクルする「もと」も集まりやすい。このように、現在のリサイクルは、大量生産大量消費を前提にしている。
「リサイクル至上主義」は、大量生産大量消費でも、再資源化してしまえば大丈夫、という風潮になってしまう。そもそも、「リサイクル至上主義」は大量生産大量消費でなければ成り立たない。もし、必要最低限を生産・消費し、ものを大切にする、という社会であれば、「リサイクル至上主義」にはならない。そのような社会なら、何よりも、持ったり使ったりするものを少なくすることや、ものを大切にしたり、何度も再利用したり修理したりして、本当に使えなくなるまで使うことが大切で、あまり「新しいものをどんどん作る」という発想にはならないからだ。
リサイクルは、ゴミとして廃棄されてしまうかも知れないモノを資源として活かす。つまり、不要なモノ・ゴミが減ればリサイクルはしづらくなる。むしろリサイクルは不要になる。
このように、大量生産大量消費を前提としている現在の「リサイクル至上主義」は、今の資本主義のシステムの範囲内で行われている。そのため、「リサイクル=環境保護」と単純に言えず、現状のまま何も変わらない、という状況に陥る可能性があるのではないだろうか。
次に、リサイクルを考える上で重要な視点がある。それは「エネルギー」の問題だ。例えば紙のリサイクルを考えた時、大量の水や薬品を使うなど、さまざまな所でエネルギーを使用し、また地球に負荷をかけている。
ここで「エントロピー」という点からリサイクルについて述べる。「エントロピーの法則」とは、「物質とエネルギーは一つの方向のみに、すなわち使用可能なものから使用不可能なものへ、(中略)秩序化されたものから、無秩序化されたものへと変化する」(リフキン/竹内[1]p45)と表される。エントロピーとは一種の測定法で、それによって利用可能なエネルギーが利用不可能な形態に変換していく度合いを測ることができる」(リフキン/竹内[1]p45)。つまり、エントロピーとは、エネルギーの形態が変化する時発生する、使用不可能な(無駄な)エネルギーの度合いだ。
エネルギーの形態を変換する時、エントロピーは増大する――使用不可能なエネルギーが増える。また、エントロピーの増大の割合は、変換するエネルギーの量が多いほど大きい。つまり、大きなエネルギーをしようとすれば、それだけ無駄も増えるということだ。しかも、一度使用不可能になったエネルギーは元に戻らない。
この視点でリサイクルを考えるとどうなるか。もちろん、無駄は少ない方がいい。そこで、例として「弁当箱」を挙げる。「リサイクルできる紙の弁当箱」と「洗って使えるプラスチック等の弁当箱」ではどちらが「無駄」が多いだろうか。紙はリサイクルする時、様々な過程を経る。単に「洗う」のと、「跡形もなくして新しく作り変える」のを比べると、後者がエネルギーを大量に使用する、つまり「無駄なエネルギー」が増えるということになる。
以上から分かるように、リサイクルは、環境問題を解決する手段として、最初に持ってくるべきではないだろう。よく、日本では、環境問題を解決する「3R」(Reduce:減らす、Reuse:再利用、Recycle:再資源化)が言われている。だが、「Refuse(やめる)」や「Repair(修理)」も提唱している方がいる。そこで、「5R」(Refuse、Reduce、Reuse、Repair、Recycle)とし、やはりリサイクルは「最終手段」として位置づけるべきではないだろうか。
とはいえ、今の資本主義のシステムでは、どうしても「リサイクル至上主義」になってしまう。社会に大きな影響力を持っているであろう「企業」が、積極的にリサイクルを進めている、という現実があるからだ。
今日、環境対策はとても重要なことである。企業にとってももちろんそうだ。「企業の社会的責任」が言われるようにもなり、現代社会の中で環境に大きな影響を与えている存在の一つである企業が環境対策を行うのは当然の事だ。
では、それぞれの企業はどんな取り組みを行っているのだろうか。それを調べるため、家の中にあるものを見て企業名を調べ、それぞれの企業のウェブサイトで、環境対策などのページを見た。調べた企業は47社。内訳は製造業37、運輸・通信業5、製造小売業2、小売業2、金融・保険業1である。以下に、それぞれの取り組みをまとめた表を示す。
表 企業の環境対策 まとめ
| 経営 | ◇環境マネジメントシステム ◇環境会計 ◇環境監査 ◇法令遵守 ◇リスクマネジメント |
| 商品企画 | ◇包装簡素化 ◇詰め替え商品 ◇リサイクル原料の使用 ◇長持ちするものを作る ◇安全な材料を使う ◇3R |
| 生産 | ◇省エネ ◇二酸化炭素削減 ◇化学物質排出抑制 ◇燃料の工夫 ◇環境ホルモン対策 ◇ゼロエミッション(産業廃棄物の極小化) ◇水の浄化 |
| 物流 | ◇低公害車使用 ◇梱包材の工夫 ◇鉄道利用 |
| 販売 | ◇量り売り ◇ばら売り ◇レジ袋持参運動 |
| 事務・営業 | ◇オフィスでの省資源化 ◇グリーン購入 |
| 社会的責任など | ◇情報公開 ◇社員教育・社会教育 ◇募金活動 ◇植林活動 ◇環境コミュニケーション(消費者との対話など) |
| その他 | ◇風力発電 ◇環境保護を考えた保険 ◇環境対策に積極的な企業への融資増大・環境破壊する企業への融資の低減 ◇自社製品を利用した水の浄化 |
表を見ると、様々な面での企業の取り組みが分かる。一気に……というわけにはいかないが、少しずつ積み重ねていくことで、ちりも積もれば山となり、環境への悪影響を減らせる、というのが、企業の環境対策への姿勢のようだ。
しかし、企業というのは利潤を追求する存在である以上、環境対策に限界がある。
まず、(繰り返しになってしまうが)企業は利潤を追求するために、大量生産しなくてはならない。つまり、環境対策といっても、大量生産を前提にした環境対策になってしまうのである。大量生産が環境問題の一つの原因になっているなら、大量生産を前提とした企業の対策は「あまり意味がない」ということになってしまう。
次に、「企業の宣伝としての環境対策」という問題がある。表を見ると、「(環境対策に関する)情報公開」というものがある。もちろん、情報公開というのは、消費者の「知る権利」のためにも大切で、企業は積極的に情報公開すべきだろう。しかし、それを逆手に取れば、情報公開は宣伝となり得る。実際、ある企業は、「環境対策三ヶ年計画」の一つに、「環境視点からの企業ブランド力の向上」を掲げている。
宣伝も企業の商売活動の一つである以上、環境対策が「宣伝材料」になってしまうのは避けられない。たとえ企業にそのつもりがなくても、昨今の「環境ブーム」の中、環境に配慮している商品の方が売れるだろう。そのため、「環境に配慮した商品を作ったり、環境に配慮した生産活動をしたりする」とよく売れる(売り上げが上がる)ので、結果的に「環境対策を利用した宣伝」になる。
だからといって、環境対策が企業の宣伝材料になっていることが悪いとはいえない。そもそも、商品を売るためには宣伝が必要になるが、ある商品を作るために関わっているあらゆる事項は全て宣伝材料になり得る。環境対策もその一つに含まれる。
「企業の宣伝としての環境対策」の問題は、「環境対策」より「宣伝」が優先されてしまう可能性があるという点である。環境対策が結果的に宣伝になっている場合、その企業としては、少しは環境について考えていると評価できる。しかし、「環境ブーム」を逆手に取り、「恰好の宣伝材料」として環境対策を行っているなら、本末転倒である。ただ、どんな企業にしても、どちらを優先しているか分からない。しかし、宣伝が優先されている可能性があるというところに、企業の環境対策の、一つの限界があるだろう。
最後に、「企業が掲げる環境対策の説得力」の問題がある。ある方面でやっていることと別の方面でやっていることが違えば説得力はない。つまり、いくら生産時点で温暖化対策や化学物質対策をしたり、商品の包装を簡素化したり、詰め替え商品を作ったり、物流時に様々な工夫をしたりしても、当たり前のように大量生産したり、壊れやすいものを作ったり、修理するより買う方が安かったり、安全でないものを作ったり、無駄なものを買わせたりするのでは、環境対策の意味がないということだ。企業の環境対策というと、何となく、温暖化対策とか環境マネジメントシステムのようなものが思い浮かぶ。もちろんそのような対策もしなければならないが、もっと「根本」から考え直し、大量生産前提の環境対策を疑問視してみる必要があるのではないだろうか。
環境問題というと、まず「地球のため」ということが思い浮かぶ人も多いのではないだろうか。実際、エコマークのフレーズも「ちきゅうにやさしい」である。「自然保護」という言葉もあるし、「環境を守る」というと、地球がおかしくなってきているので、「地球そのものを地球そのものとして健全にする」というイメージがある。
しかし、よく考えてみれば、これは正しいと言えるのだろうか。もし、本当に「地球のため」なら、今日行われている環境対策は意味がなくなってしまう。なぜなら、現在の環境対策は「人間のため」のものだからだ。現在の環境対策は、人間の生活や社会システムの範囲内で行われている。発電の方法を買える、安全な材料でものを作る、包装を簡素化するなど、今の「文明社会」を前提としている。「環境に優しい原料から作られています」などのような商品説明をよく目にするが、それが「地球のため」というなら、「最初から作らない方が地球にとってはずっと良い」ということになる。だからと言って、今さら、人工物が今より少ない「原始時代」に戻ることはできない。もし明日からいきなり原始時代の生活をしろといわれれば、「文明社会」で生きている人の殆どは抵抗するだろう。だからこそ、今の「文明社会」を前提とした環境対策になる。それは「環境問題は人間にとっての問題である」ことを意味する。しつこいが、もし環境問題が本当に「地球のため」なら、人間が存在する以上、必ず何らかの環境負荷を与えるので、人類が絶滅してしまえばいい、ということになってしまう。しかし、誰もそんなことを望まないし、環境問題を解決するためには人類が絶滅すればいい、と本気で思っている人はおそらくいないだろう。
ところで、「人間のため」というのは、「人間さえよければいい」という意味ではない。環境問題は人間にとっての問題であり、人間がこれからも地球上で生きていくために、人間自身が解決しなければならない問題である、ということだ。
とは言え、「人に優しいものは地球に優しい」というフレーズもあるし、百パーセント「地球中心主義」というわけでもない。環境問題が人間にとっての重大な問題であるという認識もあるはずだ。では、「自分の問題」と思いつつも、なぜ環境問題はなかなか解決しないのだろうか。
そこで、人間の環境認知という問題が挙げられる。人間は環境をどのように認識しているかということである。まず、「現代人、すなわちホモ・サピエンスがもっている大脳新皮質の割合に見合った集団サイズは、約一五〇人である」(小田[2]p96)。つまり、現代人は150人程度の集団で行動するようにできている。人間はそもそも、「地球規模で考える」ことができないのだ。その人間の能力から考えると、今日の環境問題はあまりにも規模が大きい。
人間の「身体的な特徴は農耕牧畜以降の環境に追いついていない」(小田[2]p72)。つまり、人間の身体は狩猟時代と変わっていない。現在の「文明社会」の環境には、実は人間は適応していない。人間の身体と現在の環境の「ずれ」が環境問題の根源になっているのではないかという。
それでは、環境問題を解決するのは無理なのだろうか。簡単にそうは言えないだろう。環境問題は人間にとっての問題であることと、人間の環境認知能力を活かした、新しい環境問題解決の方法を提示するという道がある。インターネットの普及などで、「心理的な意味においてもっと地球を狭く、世界を小さく」(小田[2]p197)していけば、大規模な環境問題でさえももっと身近になり、環境問題を本当に解決する一歩へと近づいていけるかもしれない。
[1]ジェレミー・リフキン(竹内均訳)『改定新版・エントロピーの法則――地球の環境破壊を救う英知』祥伝社,1990
[2]小田亮『ヒトは環境を壊す動物である』筑摩書房,2004
四十七の企業のWebサイト(環境への取り組みに関するページ)